以前、混血の人の呼び方として、ダブルという呼び方は義務が2倍になりそうだから面倒くさそうだという話を書きました。


ここでいう義務というのは、何も法的な義務に限りません。混血の人の生き方自体がそうなのではないかと思うのです。


私は、以前から日常生活していて時間やお金が足りないなあと思うことがよくあります。それはどうしてかなと考えてみると、どうも自分という人間は、普段意識はしないけれども、2人分生きていて、そのために時間やお金が2倍かかってしまっているのではないかなと思ったりするのです。


もっと突き詰めて言えば、私という人間は実は2人いるのではないかと思うのです。一人は日本人の私で、もう一人は韓国人の私です。で、この両者はいろんな面であまりにも違うのです。


大雑把に言えば、日本人の私は理系人間で文系の学問にはまったく興味なし。コンピュータ会社に勤務していて、コンピュータプログラムを書いて暮らしています。また、会社が米国系なので、ひまがあれば、英語の勉強をしています。性格的には、無口で真面目で理屈っぽい。私と面識のある人は分かると思いますが、要するに普段の私です。


それに対して、韓国人の私はまったくの文系人間で理系の学問にはまったく興味がありません。それがひまさえあれば、考え事をしたり、文学、哲学、歴史の本を読み漁ったりしています。そして、韓国人ですから、韓国語をぜひ習得しなければなどと考えていたりします。性格的には、ボヘミアンで、いつも自由な生活を夢見たりしています。 要するに、今ここにいる私です。


(そういえば、今日まで、このブログ上でコンピュータ関係の話を書いたことがないですね。)


で、改めて考えてみると、どうにも、この両者の考え方、生き方が相容れないのですよ。であるのにもかかわらず、「私」がその両方のプログラムをこなそうとするので、時間もお金もなくなるのではないかと思うのです。


例えば、日本人の私はコンピュータ関係の書籍を買います。C++やJAVAなどのプログラムの本、TCP/IPやEthernetなどのネットワーク関係の本、OS関係の本など、買い始めれば切りがありません。その一方で、韓国人の私は書店に行くと、人文学、社会学の書籍をあれこれ読みきれないほど買い込んでしまいます。それだけで書籍代は相当額になるし、それらを全部読もうと思えば、それだけ時間もなくなるのです。


そう。たしかに私は2人いる!


しかし、当の本人はわりと最近まで、そういった問題に対して自覚がなく、ずっとそういう生き方を続けていました。どうして、私はそういう生き方を続けて来たのか。また、それをやめなかったのか。


その理由は単純で、昔の自分は若かったから。


若かったから、時間が無限にあると思っていました。

だから、2人分の人生を2倍の時間をかけてやればいい、上手くすれば1.5倍ぐらいで何とかなるんじゃないかと、どこかで思い込んでいたのだと思います。


それが、この歳になって、ようやく無理があることに気が付きました。
そして、気が付いた頃には、もうこの歳なのです。


改めて考えてみると、今の私は、20代後半のエンジニアがとっくに習得しているような技術を今ごろ身に付けていたり、大学生でも知っているような英単語を知らなかったりします。また、その一方で、ハングル文字もろくに読めず、ごく簡単な韓国語の文章を韓国人の人に校正してもらったりしています。


「日暮れて道遠し」あるいは「二兎を追うものは一兎を得ず」。
そんな言葉が身にしみたりします。


しかし、そんな私でも、最近になって、ようやく明かりが見えてきた気がしています。ひとつには、(例え、それが穴だらけではあるにしても)日本人の私と韓国人の私のそれぞれの生きる枠組みたいなものがようやく出来上がってきた気がするのです。あとはその穴を埋めていくだけ。そんな気がしています。


それと、2人分生きてきたことは、必ずしもデメリットだけではないと思うのです。


例えば、韓国人の私がものを考えていると、妙に理屈っぽい自分に気がついたりします。この理屈を組み立てはどこから来るのかと考えてみると、どうも数学が好きだった日本人の私から来ているようなんですね。

そんなときに、私は、何か、お互いに助け合って生きている自分に気がついたりするわけです。


「二人三脚」それでなんとかこれからも生きていこうと思っています。


こういう経験って、他の混血の人にはあるのかしら。


(別のブログからの再録)