なんか昨日から糸島に置いてあるPCが不調なんだよな。
これは実家に持って帰って再インスコしなきゃいけないっぽい。
帰るのは木曜日か。
友人のところの手伝い約束しちゃってるから、軽やかに帰郷できない。
まぁ、どうせ旅行記はあとは帰るだけだし、木曜日に実家から書き込もうかねぇ。
それにしてもフリック入力って全く馴染めないな。若い子たちの指の動き見てスゲェってなるもん。
なんか昨日から糸島に置いてあるPCが不調なんだよな。
これは実家に持って帰って再インスコしなきゃいけないっぽい。
帰るのは木曜日か。
友人のところの手伝い約束しちゃってるから、軽やかに帰郷できない。
まぁ、どうせ旅行記はあとは帰るだけだし、木曜日に実家から書き込もうかねぇ。
それにしてもフリック入力って全く馴染めないな。若い子たちの指の動き見てスゲェってなるもん。
さてさて。
兵庫県の東の端で目覚めたわけだが、ここから先は予定が全く決めてなかった。
神社廻りもちょっと飽きてきたし、行ってみたい神社仏閣は大阪以南だし、紀伊半島めぐることになりそうだから、ここは諦めて帰路に方向転換した。
しかも日曜日だったし、世間的には三連休の中日だったから神戸姫路なんか人が多いだろうなぁと近畿圏脱出することに。岡山に行こう、一年半まえに行ったけど、と田舎道をずんずん進む
あいかわらず出立は早いから霧。
gooleマップは超便利なのだけど、今自分がどこいらを走ってるのかよくわからないんだよな。
たぶん兵庫と岡山の境目くらいの集落なんだけど、見ての通り石州瓦じゃない。
なにはともあれ3時間くらいで岡山市に到着する。
岡山市近辺っていろいろ見たいものが結構あるのだけど、なんか4日目でずっと車の運転をしてきたから気力も体力も残りわずかって感じだったから、とりあえずの目標がこれ
ドムドムバーガー。
たしかうっすらな記憶だけど、20歳ころだからもう40年前になるんだけど、北九州市の城野駅の真ん前にあったと思うんだよな。これも気が付けばあたり近所から無くなってた。べつだん懐かしいとかの感情はドムドムバーガーにはないのだけどさ、城野駅ってべつにあまり降りなかったし用事もそれほど・・・友人がいたか。で食べたことはあるけどってレベルなんだけど、ともかく今や九州には福岡市に一店舗のみ、あるなら福岡市に行けやって感じだけどこれがまためったに行かないというかたぶん行ったことがない中央区笹岡。間違いなく道に迷うレベルで不案内な場所。
ついでと言ってしまえばそうなんだけど、岡山市には3店舗もあるから行っておこうと。ま、味はふつう。不味くはない。昔食べたときはまずい気がしてたのだけどさ。
んで、一年半まえにここを目当てできた吉備津神社
比翼入母屋造
かっちょえー、って唸る。国宝だもんね。
まぁ、最初来たときは鳴釜神事が行われてるってのを目当てに来たんだけど、この本殿は圧巻だった。いろいろと思うところはあるんだけどね。
んで、
全国で4番目の大きさを誇る、造山古墳。
家々の後ろに見える小山状のところが後円の部分。この後行ってみたいところがあったので、古墳にはのぼらず。近くから眺めただけ。
そして完全に写真を撮るのを忘れてしまったのが、広島県府中市にある「首無地蔵」。
たまたま話に聞いて、なおかつ府中市は父方の祖父が生まれた土地でもあるから、行かずばなるまいか、と行ってみた。
いままでさんざん神社廻ってきて、現世のご利益をお願いしまくって、じつは今までめぐってきた記紀神話系の神様って「祀って大切にしますから祟らないでね」という感じの神社ばかりで、現世のご利益は守備範囲外かも、ってところ。でもこの首無地蔵は現世利益バリバリなイワクつきな地蔵様で、ここは遠慮なく現世のご利益をお願いしてきた。
まぁ、たまたま知ったのが、いままで廻った神社の霊験のたまものだったのかもしれないけどさ。
夕方には会所も閉まるらしかったので、お参りした後は東広島まで寝場所を探しに。
この日の夕飯は道の駅でラーメンを食べる。もはや旨いのか不味いのか訳が分からなくなってきてた。不味くはなかったけどね。
そういえば、なんか糸島に来て書いてアップしたらいつの間にか二重にアップされてたみたいだなぁ。PCが違うからだろうけど。
鳥取を勢いよく抜けて兵庫県、京都府と進む。
失敗したなぁと思ったのが、鳥取市から9号線で進んでいったら無料の高速道路で豊岡市まで抜けてしまったこと。
田舎道を徘徊するのを信条としているから、何とも味気なかった。まぁ、ずいぶん短縮はできたとは思うけどさ。
で、舞鶴市のちょっと手前、ドライブインだるままでくる。
本当は出雲市でもっと見聞したかったけど、ついでにここにも来たかったから、堺市から東へと無茶に進んだわけさ。
そう、ハンバーガーの自販機。実はここから西の日本には存在しない。
高校生のころ、だから45年くらい前までは自分の家の近くにもあったけど、いつの間にか見なくなってたんだよな。それこそ麺類の自販機はあまり見なかったけど、自販機のハンバーガーは何度か食べた事がある。
お昼ごろに到着したのだけど、なんか人が結構いてハンバーガー自体の写真が撮れなかった。横にあるビンコーラも一緒に買って昼ご飯だ。たぶん今生の最後となるだろう自販機ハンバーガーだな、と思って感慨深かった。味は冷凍のハンバーガーだ、うまいはずがない。
とまぁ、とにかく300円のハンバーガーを食べるという常軌を逸してる目標は達成された。
さて、これから丹後半島を一周しよう。
せっかくだから天橋立でも・・・・とも思ったのだけど、なんか観光客がかなり多い。そもそも自然の絶景ってそれほど興味がないから華麗にスルー。海岸沿いからあれが天橋立かぁと松林を眺めながらズンズン進む。
ついつい観光客が多そうだったという理由で「籠神社」を見忘れてしまいあとで後悔するのよ。
天橋立ロープウェイ乗り場のそばにあって、伊勢神宮に豊受大神を連れていかれたというか伊勢神宮の元々の起源っぽいところ。なにせ、奥の宮ってところに元はあったのだけど、いわゆる磐座を祀ってるかなり古めの神社。ああ、見たかったなぁ。
まぁ、何はともあれなのだ。
半島の真ん中くらいにあるハコ岩(徐福上陸地)を見たかったからかなり細い道を走ってきたのだけど、車を止める場所が無くて泣く泣く諦めた。道が細くて路駐もできない。写真はここを降りていけば神社とハコ岩があるよって場所。
まぁ、徐福上陸地伝説ってあちこちにあって、丹後半島は波打ち際からかなり切り立った崖が続く場所ばかりで、この場所も海面から30メートルくらい高い位置にある。徐福はどこから出航したかはわかってないけど、かなりの人間と物品を伴って船団で出航したとあるから、切り立った崖に降り立つのはなかなかえらいこっちゃだとは思うけどね。
ともかく仕方がないので延々と丹後半島を棚田など見ながら回って
竹野神社
竹野媛という7代開化天皇の后を祀ってる。ここも丹後地方一帯を・・・ってな話を書きだすと結構な分量になりそうだから割愛。
さすがに神社も飽きてきたから写真がおざなりになりつつあるのだが、網野神社。
日子坐王(ひこいますのみこ)を祀っている。9代開化天皇の御子で崇神天皇の弟。ちょっとゴタゴタがあったらしい。
住吉大神、水江浦嶋子神を祀ってる。
ちなみに水江浦嶋子神は浦島太郎の物語の元になった逸話の人。玉手箱(丹後風土記逸文には玉匣となってる)を開けるところまでが一緒だけど老人にはなってない。
とまぁ、駆け足で丹後半島を廻って豊岡市を下って養父市あたりで日が暮れた。
この日は温泉につかった。ちなみに晩御飯は途中の道の駅で買った半額になった日替わり弁当。300円だった。自販機のハンバーガーと同じ値段。
で、二日目は大山の向こう側まで行って車中泊。
三日目、いつもの事だけど朝の6時過ぎくらいには出立する。
最初に行ったのが、青谷上寺地遺跡
出雲を抜けたら神社廻らなくなって写真が極端に少ない。
ここは遺跡の近くに作られた青谷かみじち史跡公園。
この遺跡の特筆すべきところは、そもそもが低湿地帯で出土品が多種多様だった。しかも集落の中心部の東側にあった溝から100体以上(たしか109だったきがす)の人骨が出てきて、そのうちの3体に脳の一部が残ってたらしい。
聞くところによると、人骨は埋葬されてはおらず、女性、子供もあって、バラバラ状態で、なかには(たしか全体の2割くらい)殺傷痕らしき傷があったという。集落の規模からいうとかなり大きかったらしいのだが、古墳時代に入ってすぐに消え去っている。
ときくとこの100体の人骨はどこからか攻めてきた連中に住民がジェノサイドを受けたって思うじゃん。殺されて村の溝に打ち捨てられたってさ。女子供も巻き添えになってて感じで、でも、これらのDNAを調べたところ「血縁関係」がほとんど確認できなかったらしい。わずか数人。
ゲノム解析で父方は縄文人由来、母方は渡来人由来が散見されたというから、単純に縄文人の村を渡来人集団が襲ったという感じでもなさそう。出土したものが多種多様で、山陰の日本海の入り江という場所的にも人の行き来が多かった場所だろう。
入れ替わり立ち代わりに人が流入して出て行ったから、血縁関係(母方)のない集団が出来上がったのかねぇ。
もしくは、どこかから連れてこられたいわゆる奴隷集団をなにかの理由で皆殺しか祭祀のために・・・・なんか無理があるなあ。
まぁ、一気に殺されたのかどうかもわからないけど、魏志倭人伝にある「倭国大乱」の時期にドンピシャだからなにかしらの悲劇が山陰に起こってたのは間違いなさそう。
ここの史跡公園には出土品を展示してるらしいのだけど、開館が9時くらいだったっけ?朝早く移動を始める自分がここについたのが7時くらい、2時間時間をつぶせる訳もないよなぁというくらいの田舎だったし、三連休の初日、人出が多かろうとさっさと鳥取市を越そうと。
悩んだ挙句に決断したのは、今回の目標点の最東端、舞鶴まで一気に行こうと。
なんか糸島で書いてるからなにかと捗らない。
まぁ、寝るべ。
で、二日目は大山の向こう側まで行って車中泊。
三日目、いつもの事だけど朝の6時過ぎくらいには出立する。
最初に行ったのが、青谷上寺地遺跡
出雲を抜けたら神社廻らなくなって写真が極端に少ない。
ここは遺跡の近くに作られた青谷かみじち史跡公園。
この遺跡の特筆すべきところは、そもそもが低湿地帯で出土品が多種多様だった。しかも集落の中心部の東側にあった溝から100体以上(たしか109だったきがす)の人骨が出てきて、そのうちの3体に脳の一部が残ってたらしい。
聞くところによると、人骨は埋葬されてはおらず、女性、子供もあって、バラバラ状態で、なかには(たしか全体の2割くらい)殺傷痕らしき傷があったという。集落の規模からいうとかなり大きかったらしいのだが、古墳時代に入ってすぐに消え去っている。
ときくとこの100体の人骨はどこからか攻めてきた連中に住民がジェノサイドを受けたって思うじゃん。殺されて村の溝に打ち捨てられたってさ。女子供も巻き添えになってて感じで、でも、これらのDNAを調べたところ「血縁関係」がほとんど確認できなかったらしい。わずか数人。
ゲノム解析で父方は縄文人由来、母方は渡来人由来が散見されたというから、単純に縄文人の村を渡来人集団が襲ったという感じでもなさそう。出土したものが多種多様で、山陰の日本海の入り江という場所的にも人の行き来が多かった場所だろう。
入れ替わり立ち代わりに人が流入して出て行ったから、血縁関係(母方)のない集団が出来上がったのかねぇ。
もしくは、どこかから連れてこられたいわゆる奴隷集団をなにかの理由で皆殺しか祭祀のために・・・・なんか無理があるなあ。
まぁ、一気に殺されたのかどうかもわからないけど、魏志倭人伝にある「倭国大乱」の時期にドンピシャだからなにかしらの悲劇が山陰に起こってたのは間違いなさそう。
ここの史跡公園には出土品を展示してるらしいのだけど、開館が9時くらいだったっけ?朝早く移動を始める自分がここについたのが7時くらい、2時間時間をつぶせる訳もないよなぁというくらいの田舎だったし、三連休の初日、人出が多かろうとさっさと鳥取市を越そうと。
悩んだ挙句に決断したのは、今回の目標点の最東端、舞鶴まで一気に行こうと。
なんか糸島で書いてるからなにかと捗らない。
まぁ、寝るべ。
二日間、糸島に移動したり友達のところに行ってみたりと、なにかと右往左往してた。
で、どこまで書いてたっけかな・・・
そうそう、お昼食べて向かった先が
加茂岩倉遺跡.
ここいら辺から写真を撮るのが億劫になってきた。
ざっくり説明すると、農道を作ろうとショベルカーで小山を掘り起こしてたら銅鐸が39個出てきたわけで、写真のえぐれてるところがパワーショベルがガッと入ったところで、かきだした土の中に銅鐸があれよあれよと入ってたらしい。周りに、ここにこんな感じで見つかったよーってレプリカを配置してる。
この間・・・3月くらいだったっけ、荒神谷遺跡が見たくて来た時、ここ忘れてたやんと見に来たわけだけど、山裾に駐車場があってわさわさ木立が生い茂ってる道を10分くらい登ってきたところにある。荒神谷はやはり小山の斜面だったのだけど、それほど山中って感じじゃなかった。加茂岩倉遺跡は
山陰本線って書いてある下の旗マークのところ。なんか微妙な位置。
ここの奥のほうに展示施設があって、そこの職員さんと話したのだけど、発見当時大きな銅鐸の中に小さな銅鐸を入れて、あのパワーショベルのひとかきで出てくるくらいのスペースにギチギチな状態で埋められてたってらしい。もちろんなんでこの地に埋められたのかはわからない。職員さん(たぶんリタイア後の教職員さんっぽい物腰だった)によると、地名の岩倉がさしてるように巨石があちこちにあって、このあたり一体が聖地だったのではなかろうかね、って感じだった。じゃぁ、なぜ荒神谷には銅剣と数個の銅鐸、こっちには銅鐸のみ、ってなんでですかね。近いようなそうでもないような距離だしね。そもそも、きちんと並べて大小入れ子状態にして39個も運ぶってここに埋めるって意思があったわけだから、なにがそうさせたんだろうねぇ。
しかも、出土した銅鐸の数個は近畿で作られたっぽいし、北九州のかもしれないってのもあるとか。
職員さんと話してて思ったのが、いままでさほど考えたことが無かったけど、銅鐸って何に使ってたんでしょうね、というところで、元は朝鮮半島で使ってたカウベルみたいな小さなベルだったのが、日本に渡って神聖化して巨大化したんじゃないか、これを鳴らして神への信仰としてたんじゃないだろうかね、などと言われて、あそうか、神社にある鈴、もしくは柏手なのか、と思い至った。当たり前ちゃ当たり前なのだけどさ。
で、ざっくりした理解だと、この銅鐸、文化圏とすれば近畿と昔習った気がするし、剣は北九州の信仰、埋納された時期がわからないから何とも決定打にはならないが、真名井遺跡からホコとタマが出てきたから日本全国から文化が入ってきてたように感じるよね。埋められた時期が何かしら大和朝と因縁めいた事があったとして(国譲りだとかね)そのあたりで泣く泣く埋納したってことになれば出雲の影響力ってかなり大きかったってことになりそう。
いけね、さっさと進まなきゃ。
神魂神社.。
出雲地方から松江の南くらいに位置する、ここは比較的新しい神社。といっても創建が平安時代らしい。古式にのっとった大社作りの社で、国宝。
もともと出雲国造家(まぁ今でいう県知事っぽい感じかな)の祖霊アメノホヒがこの地に降り立ったといわれる。
でも祭神はイザナギ・イザナミ。
で、
近くの
岩坂陵墓参考地(イザナミ)
宮内庁指定参考地だから確定とはなってないがイザナミは比婆山に葬られたと言われてて、ここが当時の比婆山じゃろってどんな経緯で決まったのかはわからない。ヒバゴンで有名な比婆山はもっと南東にあって、イザナミを祀る比婆山久米神社と山頂にってあまり聞かない古墳が山頂付近にあるらしい。さすがに行ってないが。
で、
熊野大社
写真がほとんどない。
意外にも出雲一之宮。
気にしてなかったのだけど、出雲は出雲大社(杵築の宮)が一之宮だとずっと思い込んでた。
出雲国造の本来の奉斎社(wiki)ここも説明と考察書き出したら止まらなくなりそう。
祭神は
というやたら名前の長い神様。初めて火をおこしたとされてる。で、いつのまにかスサノオの事だよってなったらしい。
順番がどこで行ったっけの八重垣神社。
スサノオと稲田姫を祀ってる。
出雲八重垣 妻ごみに・・・
で有名な・・・・・と言いたいが、今回行き忘れてた須我神社という日本初の神社と名乗りを上げてる神社も同じように稲田姫と所帯を持ってここに宮を作ったってなことを言ってる。須佐神社もそんな感じだったからなぁ。
八重垣神社の奥に池があって、半紙にコインを乗せて水に浮かべ、早く沈んだら縁が早く、遅く沈めば遅く、遠くに行って沈めば地理的に遠くに縁を得る、という占いの池があった。小泉八雲の奥さんが占ったとか。なんか沈んでない根性のある半紙もあって気持ちを憚るに忍びない状態だった。
で、ここまで来て午後3時過ぎくらいだったっけ。
あと行ってみたいと思ってたのが3か所くらいだったが、さすがに飽きてきた。
今回の旅の目標地点がもっと東だったから、松江とか境港とかをうろうろして明日移動時間を取るか、このまま行けるところまで東に進むか、と悩んで進もう、なんか神社も飽きたし遺跡も日が暮れたら見れないし、と鳥取に向けてずんずん進むことにした。
ハワイくらいまで行ければいいや。って行けなかったけどね。
移動は日没までって決めてた。
糸島でパソコン打つのが久しぶりだからなんか苦労。
明日はやっと3日目か。
ちょっと気になったから調べたのだけど、三の鳥居・・・銅の鳥居だった・・・の正面に拝殿・本殿がないよなぁ、ってのでグーグルマップで確認したら後方にある素鵞社に・・・と思ったけど若干ズレてる気もするなぁ。
古すぎるくらいの神社だから、なんども遷宮してる。あえてズレさせてるだろうしなぁ、なんでじゃろ。
まぁ、ともかく、日御碕神社(ひのみさきじんじゃ)から・・・
ヤマの中の真ん中下くらいにある旗じるしをつけてる
須佐神社へ。
伝承ではスサノオが「土地にわしの名前をつけろ」といったとか言わないとかで土地の名前が「須佐」
スサノオの子孫とされる須佐氏が治めてたらしい。
不遜ながらもスサノオは元はこの土地の土着の神様だったのじゃなかろうかと思う。
記紀神話的には天上では乱暴者で、出雲に降りてきてからヤマタノオロチを退治したヒーロー、しかも全国あちらこちらで祀られてる。なんでこうなった?
土地柄、山の中の小さな平地なので農耕神とは考えにくい、近くに磐座的なものがあるらしいから信仰自体はかなり古いはず、
それが、馬の皮剥いで大暴れするわ、後で行くけど出雲に降りてきて初めて火を作ったのがスサノオとされてるし、天上を追い出されたあとオオゲツヒメをバラバラにして五穀の起源を作ったってのもスサノオ、あと、死んだ大国主が行った黄泉の国での大将もスサノオ。
なんか印象的に「こわもてのオヤジ」っぽい。
大国主とともにスサノオは摩訶不思議な神様なんだよな。
といわけでこの後どうしようか?と行った先が
西谷墳墓群
日本中にべらぼうな数がある古墳だけど、出雲にしかない四隅突出型墳丘墓。と思ってたけど、富山にもあるらしい。
ともかく弥生時代後期だから紀元後1~2世紀くらいらしい。で、ここの規模がかなりでかい。
規模感からすると古墳時代に入る前に作られた墳墓とは思えないくらい。それだけ力のあった王がいたってことだし、年代はよくわからないけど荒神谷と加茂岩倉の遺跡から大量の銅剣や銅鐸が出てきたから、やっぱり草創期の大和朝とは因縁めいた話があったのだろうねぇ。知らんけど。
ホログラムで埋葬状態を映し出す仕組みも墳墓内にあった。誰もいなかったからちょっと怖かった。
と、ここまででやっとこお昼。
あいかわらず自販機ラーメン。ちなみにここのソバは以前食べて普通だったが、ラーメンはちょっと・・・って感じだった。自販機で買ったおにぎりを備え付けのレンジで温め。ここまでロクなもの食べてないし、話題にするのもアレだけどそういえば夕飯はセブンの弁当だったっけ。ま、今回は食事にリソースを割かないって決めてたから。
いけね、食器洗いして寝なきゃならぬ。あと半日分かぁ。
ちなみに縄文人はすでに定住してました。石器時代人の定住生活って世界的には珍しいらしい。
これは前日の夕方、遠くに見えるのが島根半島、
朝一で稲佐浜・・・からの・・・
出雲大社!!
とはいうものの出雲大社には都合5回目。
スピっぽい参り方をしたのは30年前のお袋と一緒に参ったときくらい。独身の頃に親孝行で連れてきた。母親は縁結びを願うために出雲って言ってたな。今の嫁に出会ったのが数年後。ご利益なのか?
ま、当時は親も友人も職場の連中でさえ自分が結婚するなんて思いもよらないって感じだったからね、効き目はあったっぽい。
そもそも大国主が縁結びの神様ってのは、あちこちに嫁さん拵えてたっていう話からきてるっぽいから、それはそれでどうなのよ?って思わなくはない。
正面の(たぶん)2の鳥居から入ると右の写真のように本殿まで下ってる。下り宮というか下り参道。
(たぶん)3の鳥居の正中から少しずれて社がある。なんだろうねぇ。
そもそも大国主の国譲りにみられるように大和と浅からぬ因縁がある神社だからね。いろいろと想像をかきたてるよ。
物的証拠的な石碑に書かれた記録なんかが出てこない限り、状況証拠を積み上げるしかない話だから、いろんな人がいろんな事を好き勝手にスピるのは仕方がない事だろうけど、最近は陰謀論を楽しめなくってガチで信じる連中が出てくるから困ったものだ。
などと思いつつ「二礼四拍手一礼」でお参り。これも他の神社は「二礼二拍手一礼」だから四拍手は大国主を封じるための・・・てな風評が一時期あった気がするが、たしかいつの時代だか忘れてるけど、それまで参拝の作法が全国バラバラだったのを大和朝廷が「二礼二拍手一礼」に統一!!って言いだしたのだけど、出雲大社と宇佐神宮は「うっせぇ、ぼけぇ」と従わなかったってことらしい。ちなみに宇佐神宮も「二礼四拍手一礼」まぁ、あそこも因縁浅からずだけどね。
で、本殿の真後ろにあるのが「素鵞社(そがのやしろ)」
大国主の義父にあたるスサノオノミコト
このスサノオという神様、かなり有名で(たぶん)この出雲の神様なのだろう・・・とは思うのだけど、記紀神話でのキャラクターの変遷がすさまじく、疫病関連のたたり神てきな伝説もあったり(蘇民将来)と何を拝んでればいいかわからない神様でもある。まぁ、日本神話の神様に霊験があるかどうかは(伝説には明示されてない)何とも言えないところだから、オールマイティって感じだろう。アマテラスの弟だしね。
ちなみに大国主の嫁の一人がスサノオの娘、スセリビメ。と思ったら宗像三女神のタギリヒメもいわく的にスサノオの娘や。
で、この二人、本殿横に並んで祀られてる。なんか複雑な状況っぽく思える。嫁ふたりと背後には舅。
ちなみに本殿内の大国主の居る内殿は参道方向を向いてない。本殿自体は南に向いているのだけど、内殿は西の稲佐浜の方向を向いてるらしい。旧暦の10月、他所の土地から神様がゾロゾロとやってくる稲佐浜方向を向いているって事らしい。
出雲大社の話になると、思いつくことを片っ端から書いてたら膨大になりそうだし、全然頭の中で整理ができてないから、次。
写真がボケてたからないけど、次に行ったのが徒歩、神魂伊能知奴志神社(かみむすびいのちぬしのかみのやしろ)(命主社)神産巣日大神(かみむすびのおおかみ)を祀ってる。神産巣日大神とはイザナギ・イザナミが国造りする前に現れた神様で、ほかの神々から「御祖(みおや)」って呼ばれてるくらいえらい神様。殺された大国主を蘇らせたくらいすごい。スクナヒコナが息子だとされる。たぶん元々が出雲の神様なのだろう。
(命主社)いのちぬしのやしろ・・・パワースポットで界隈には有名らしい。社殿の裏に真名井遺跡があり、銅戈(銅でできた鉾)とヒスイ製の勾玉が出土したらしい。その真ん前に社があるからね、なにかしらの祭祀場がここだったって事かな。
ま、近くの真名井の清水で水を汲んで、次の場所へ。
なんかへんな写真しかない。
日御碕神社(ひのみさきじんじゃ)
神社名が変換候補に出てこないからめんどくさい。
全く関係ない場所にあった昔の出雲地方の状態図をもってきたけど、赤い矢印つけてるところが出雲大社で、そこから日本海の突き出た半島の先っぽ、ちょうど横向きの矢印が指してる当たり。
いわば、出雲半島の西の先。つまり太陽が沈む場所。元々はこの宮がある湾状になったところに巨大な岩があり、その上に鳥居があって、ウミネコの生息地になってるらしい所に祭祀場があったらしい。らしいばっかりなのは宮まで行ったけど海まで行きそびれてたから。ここの祭神はアマテラス。日の神様だから順当だけど本殿の一段上にスサノオも祀られてる。
で、時間的にまだ朝の9時くらいの話なのだけど、これじゃ一日が終わらねぇし。
タイムリーな感じでこれ
松江までまだまだ先なんだけどな。しかも朝ドラ見てない。
昨日サイズオーバーでアップできなかった連中。
益田のちょっと先にある自販機・・・なんていうのが正式名称なのか?で食べたうどん。
かすかに見えるのは海老天。ここは毎回通るたびに食べてる。
一枚目はたしか太田くらいのところ交差点で久しぶりに止まったから、写真が撮れた。
この写真、なにがというと真ん中に見えるラーメン屋と思しき店、看板のデザインが「丸源ラーメン」
その隣にちょっとだけ見える喫茶店、全体のデザインが「コメダ珈琲」、その横には本物だろうと思われるシャトレーゼ。
いや、シャトレーゼも本物なのか?という疑念がついてまわった。
と二日目のことを書かないとて思ってたのだけど、写真が25枚くらいリサイズの羽目になっていて、そして時間切れまであと40分。むりやん・・・。
とまぁ、人間大切なのは「締め切り」だよね、とこの間友人と語り合った事をど真ん中で体感しているところです。
締め切りがないとお尻に火がついててもダラダラしちゃう。
今日の午前中さすがにギリ、と庭の草刈りと木の剪定をこなしたまでは人として立派とほめてやりたいところなのだがね。
来週の初めにはまた糸島に行かなきゃならないから、先月刈り込んだ雑草がすでに20センチくらい伸びていて、また糸島に行っている2週間でひどいことになりそうだから、今日しとかなきゃ、なのであるよ。
自民と維新の連立が事実上決まったらしい事をNHKのニュースで言ってた。んで立民は政権奪取をあきらめたっぽい。
まぁ、野田だとそうなるか、って感じだ。
この与野党のゴタゴタを見回してみると、得した党ってないよね。
自民と野合した維新、政権を手放した公明、チャンスからの埋没の国民、覇気が感じられない立憲、本人たちはいろいろと策謀してただろうし、立ち回り的に正解って思っていそうだけど、それぞれの基盤支持者の思惑からはかなり外れてる感じがするんだよね。そして案外いちばん厳しいのが自民じゃないかなぁ。
政権を手放したくないばかりに数合わせだろ?そもそも高市にリーダーシップがあれば良いけど、「国会議員定数削減」とか、維新との候補者調整とか、公明票を失ってるとか、自民議員って選挙に勝てるから自民党員って人が多そうだからさ、脱走する議員もそこそこいるんじゃないかなぁ。今回かなり右寄りに傾いちゃったのを言い訳にしてさ。
それにしても総裁選でかなり高市に傾いたってのは、けっこうな数のツボ絡みが暗躍してた印象。なんかわかりやすいんだよね。
民意って言いがちなんだけど、自民党の党員ってお金払えばなれるし、金払わない人は投票権がないからねぇ。民意ってなんじゃろ?ま、大げさだけどファシズムに傾倒するとなかなか軌道修正が難しくなるし、生き死にの大けがするまで気が付かないってのは定番だからねぇ。どうなることやら・・・
って日付が変わりそうやん
木曜日
なぜ木曜日だったのか、水曜日に生協が生ものを届けてくれるから。
一人暮らしが二か月にもなると生協に頼らなくても良いのだけどね。スクーターで買いに行けばいいだけだし。
ともあれ火曜日まで糸島の嫁と娘のところにいて、家事全般を押し付けられてたわが身を解放すべく、水曜日に生協が来るから実家に帰るね、と半ば逃亡に近い感じで帰省したってわけだ。
糸島から実家まで約80キロメートル。真面目に運転して帰ったら3時間切るくらい。
途中、友人の家があるから寄り道してたらだいたい夕方くらいに帰り着く。
一人暮らし初めて3か月くらい。じっさいこの年齢になるまで一人暮らしってしたことなかったのにいまさらながら気が付く。まぁ、別段、料理はできるしって思ってたし、2か月間、娘と二人暮らしで食事全般を作ってたからそれほど気に留めてなかったのだけど、いざ一人分の料理を・・となるとハードルがとんでもなく上がる。一日2食(ダイエットのため)2食同じメニューって嫌じゃない?でも何か作ろうって思ったら4食分くらいできるわけじゃん。材料も買えばそこそこ多いし。
となると、冷凍食品とかに走りがち。
と、気が付けば本題からどんどん明後日の方向に行きそうだから無理やり戻すけど、生協から届いた牛乳とかヨーグルトとかを冷蔵庫に入れなければならないわけだ。
で、帰宅後、今年の2月に買った中古のハイエース、
(これは娘の引っ越しのためと車中泊のためにバンにしたのだが、引っ越しが鹿児島→福岡、実家→糸島、嫁→糸島、と波状に活躍してくれた。ひと段落落ち着いたなぁ、どっか車に乗って遠出でもしたいなぁ、と思った時には酷暑に突入してて、こりゃぁ暑くて夜中に一睡もできないかもしれない、と最高気温が30度を下回る日をじっと待ってたわけですよ)
に荷物を積み込んで、木曜日の8時過ぎくらいに出発。予定は全編下道。
初日はざっくり出雲あたりまで行けばいいかな、と。
山口県はそこそこ何回も行ってるけど、だいたい下関から海に沿って行ったり来たりしてた。今回は県の中央を走ってる国道9号を行く。
大まかに日本海側を山陰地方、瀬戸内海側を山陽地方って思ってたのだけど、どうやら山陰って島根鳥取が主で山口県は一部って感じらしい、ので津和野に入るまでは山陰漫遊記ではない。
山口市に入ったのは10時過ぎくらい。県庁所在地だからそこそこ都会・・・?まぁ、そこはそれ、なのだが、ここから先は次の県庁所在地が松江(島根県)になるから道中が長いわけで、ちょっと買い物をする。途中に益田とか浜田とか太田とか江津とかそこそこの街はあるのだけど、いちいち寄るのもアレだからね。いってもコーヒー豆なんだけど。
で、山口市の隣が津和野で益田市に抜けて海へと続いていくわけだけど、山口市を抜けたころから石州瓦の家ばかりになる。
sean from Osaka, Japan - A slightly smokier Tsuwano, CC 表示-継承 2.0, リンクによる
wikiの写真だけど、津和野の街並みで赤い屋根が石州瓦。
九州ではあまり見ない光景で、中国山地って大きな山脈がどーーんってある感じじゃなく、小さいけど結構高さがあるモッコリ感の山がポコポコある。九州の大分もそんな感じなのだけど、山陰地方は山の間を流れる川が作る平野部が九州のそれっぽいところに比べ少し広い感じがするんだ。ちなみに気になって調べたけど写真の津和野町のどこかにある森鴎外の出生地は標高が170mくらいらしい。城下町だから結構家が詰まってるけど、この先、国道沿いに川と田んぼが広がり、山の周縁に家が建つ風景になる。不思議と家屋の近くを国道は通らない。だいたい田んぼの向こうに家がある。
そしてその家がほぼ「豪邸」
遠目にみえるからそうなのかなぁと思ってたけど、ちょっと市町村の空き家バンクを覗いてみたら延べ床面積150越えがゴロゴロ(元農家)しかもちょっと高いところにあるから堂々とした日本家屋がよりいっそう豪邸感。
ま、農家の家は大きいってのは九州でも同じなのだけど、曲がり家が多いのは意外。
曲がり家ってのは上から見たら構造がⅬ字型をしてる建築様式で、東北に多いって聞いてたのだけど、山陰地方の農家もかなりの確率で曲がり家だった。
たぶん、というか東北ではまがった部分に馬を入れて寒さから守ってたってどこかで聞きかじったし、そもそも山陰地方も豪雪地帯だから同じなのかなぁ、などとワクテカ考えながら国道9号をずんずん進む。
馬って荷馬だったろう。山の中から荷物を運ぶには馬に荷物を載せて引っ張っていくしかなかっただろうからね、じゃぁ馬屋って今でいうガレージかぁなどと高速道路で無味乾燥な防音壁眺めてすっ飛ばしていかないから、結構楽しい。ただ、いくら下道、二車線とはいえ国道、しかも田舎道だからほとんど信号機がない、いい感じの家屋を見つけてもスマホを取り出して写真を撮るってのがなかなかできないのよ。気を付けてかつノンビリ運転してるとはいえ時速60キロくらいは出てるからね。いちいち止まってっていう踏ん切りがなかなかできない。先も遠いしさ。
で、お昼前に昼食①
道の駅シルクウェイにちはらの隅っこにある自販機ラーメン。
昼食②も海岸沿いにある自販機レストランで自販機うどん・・・・
写真のサイズが大きいって跳ねられてしまい、サイズダウンするソフトをまだ入れてないから明日回し。
というわけで、初日は出雲まで延々と運転。
googleマップのタイムラインで見てみたら、300キロ6時間半くらい。
日が沈む前に出雲に到着した。
夕飯は疲れたのでカップラーメンだった。
おっと、明日はめずらしく朝からしなきゃならない事があるんだった、寝るし。