中曽根が死んだ。

戦争加害の罪が裁かれないままに死んだ。

悔しい。

 

日本軍性奴隷制(日本軍「慰安婦」制度)の被害者は、なかったことにできない、二度と誰にも同じ被害が起きて欲しくない、そういう思いから自分の被害体験を語った。

 

中曽根は 、回想録『終わりなき海軍』(松浦敬紀編著/文化放送開発センター/1978年)に、「二十三歳で三千人の総指揮官」というタイトルで、「…私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある」と書いている。

 

中曽根が、兵士のために「つくってやった」慰安所は、ボルネオ島のバリクパパン

バリクパパンには、少なくとも4件の慰安所があったことが調査によりわかっている。

 

ジャワ島で暮らしていたスハルティさんは、ボルネオ島のバリクパパンの慰安所に連行された。

スハルティさんは来日した時、私の話を聞いて欲しいと中曽根に面会を求めたが、中曽根はインフルエンザを理由に会おうとしなかった。

 

中曽根は総指揮官として、軍隊という組織が乱れ、戦力が落ちることを恐れ慰安所をつくった。

日本兵との性を強制された女性たちのことなど考えたこともない。

女性たちの性を搾取し、尊厳を奪った。

 

中曽根が設置したのが、慰安所だったことを示す資料は発見されている。

それだけに、中曽根の犯罪を訴追できず、裁くことができなかったことが悔しい。

 

 

キーワード

「海軍航空基地第二設営班資料」、日本軍「慰安婦」関連公文書、日本政府未認定、アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」