エーリッヒ・マリア・レマルク

『西部戦線異状なし』

秦豊吉訳

新潮文庫、

発行:昭和30年9月、

66刷改版:平成19年1月、68刷:平成22年6月

 

《この書は訴えでもなければ、告白でもないつもりだ。ただ砲弾は逃れても、なお戦争によって破壊された、ある時代を報告する試みにすぎないだろう。》p4 

 

                           

 「僕」パウル・ボメイルは19歳。同級生20人とともにドイツ兵として第一次世界大戦の戦場へとやってきた。

 

 物語の冒頭、戦線から9キロ離れた基地に戻った「僕」たちは、牛肉とインゲンの煮たのをたっぷり食べる。

 

 隊の仲間は、同級生の、頭のいいクロップ、将校試験をめざすミュッレル、女好きのレール。それに大人の同僚、錠前屋のチャーデン、大食いのウェストフース、愛妻家の百姓デテリンク、大将株のカチンスキー。隊長は意地悪なやつだが、同僚たちは仲がいい。

 

 遠足にでもきているような調子で語られる「たっぷり食べられた」わけに、読者は愕然とする。炊事軍曹が用意していたのが150人分だったのに、英国隊の長距離砲を浴びて、生き残ったのが80人だったからなのだ。

 

 先生に連れられ、半ば強制的に「志願兵」となった僕たち。その時ためらった級友は、まっ先に死んでいた。もう一人は両脚をなくし、満員の野戦病院に伏している。

 

 アメリカの青春小説のような、おとぼけの一人称で語られる戦争の現実。血と泥と発狂まみれ。無惨な死体を狙う大ネズミの群。惨いことをすることへの無感覚化。

 

 ドンパチ華やかな光線と爆音と「バタバタ倒れる敵」を、映画やアニメで見慣れている私たちにも、書き言葉を通した「僕」たちの現実は骨身に迫るはずだ。

 

 ヨーロッパでは有史以来、たくさんの戦争があったが、第一次世界大戦は従来の戦争とは大きく違っていた。

 まず、戦争を鼓吹する「われら○○人」という国民意識の高まり。

 そして機関銃、長距離砲弾、手榴弾、地雷、毒ガス、装甲車と、一瞬にして大量の人間を殺す大型兵器の投入。

 

「僕」たちを戦場に送り出し、「お国の勇者」と褒める大人たちは、こんな現実を予想していただろうか。

 

 それだけではない。まだ自分の生活の基盤を築いていない身で、異常な毎日に投げ込まれた、言いようのない孤立感、不安、それさえ忘れさせる虚無感が描かれる。

 

《僕らは、危険な獣になってしまった。僕らは戦うのではなくして、鏖殺(みなごろし)に対して防禦するのである。僕らは爆弾を人間に向かって投げたのではない。死が鉄兜をかぶり両手を挙げて、僕らの後ろから駆り立てるという瞬間に、何を考えていられるものか。》

p163

 

《「一たいおれたちのこれからというものは、とても苦しいことになるに相違ないよ。一たいドイツのほうじゃ、誰もそんなことを一向心配してくれてないんだろうかね。》p127

 

 それでもまだ、彼らには休暇で家に帰る自由、語り合う自由があったことは、伝え聞く太平洋戦争中の日本軍に比べてまだマシかもしれない。

 意地悪な隊長や「志願」させた先生や、戦争を始めたカイゼルへの悪口。人はなぜ権力を与えられるといばるのか、なぜ戦争が起こるのか、そもそも国ってなにか。

 

***

 

 レマルクは、1916年、パウルと同じく19歳で第一次世界大戦に従軍した。

 その体験をこの作品に描いて大評判を得たのは、終戦の10年後(1929年)。当時は雑誌記者をしており、作家としては無名だったそうだ。 

 

 しかし、このような小説がヒットしたのに、その後、ドイツ国民はナチスを歓迎し、ああいうことになり、レマルクは国籍を剥奪され、作品は焚書扱いになる。何よりこのことに愕然とした。

 

 レマルクは一時はスイスへ、のちアメリカで活躍。

『西部戦線~』以降の作品は、もうこんなに 無邪気で朗らかではないそうだが、レマルクの作品を通して読むと、

《第一次大戦から第二次大戦の終ったまでの 欧州の政治、思想、戦争を通じた、立派な、揺がすべからざる 人間の歴史ができあがっている》(「あとがき」p417) そうだ。

 

 この軽妙な訳文の文庫本初刊が1955年(訳者はこの翌年没)と知ってびっくり。まるで古さを感じさせない。

 また、この訳の初刊が、軍国主義の暗雲垂れ込める昭和4年だというから驚く。

 やはり、というか訳者は赤阪憲兵隊に呼び出されたという。だが、ツテを頼んで秩父宮に献本したりして事なきを得たらしい。

 この「とぼけた」感じが訳文にも効いているような。

(了)