★見栄 | ★迷彩服の操体師!いざわっちの憂鬱★

★迷彩服の操体師!いざわっちの憂鬱★

      「何でもいいから、まずやってみる。
             それだけなんだよ。」岡本太郎

●去年の11月のブログから

日曜日は、いわき市から約120km離れた福島市へ
「操体師」としての仕事で行ってきた。
以前のFBの記事と重複するところもあるけど、
これは操法後の記事。

末期のガンと宣告されたというSさんのご家族から
「家族が末期ガンでこれから病院を離れて自宅での緩和ケアに移行するんだけど、なんとかしてあげたい。友達としてではなく、仕事としてお願いしたい。」そんな話をいただいていた。

「伊澤さんもこれからのうつをメインにするなら、ここで何かしら化学反応みたいのが、起こるかもしれないじゃない。痛み止めの薬の調整が上手く行かなくて、多分その影響で精神的にも不安定になって、パニック障害と言れているから、すがれる物には何にでもすがりたいんだ…」

藁にもすがる思い…。
その藁の1本として、信頼してくれた。
そして、自分自身のご家族のことだけではなくて、いざわのこれからの可能性を引き上げようとしてくれる、その気持ち、勇気にただただ頭が下がる思い。

今回の操法は病と闘う、コントロールしようとすることをやめて、
からだに「委ねる」こと。
からだが感じる「心地よさ」に従うこと。
こんな操体法の基本に立ち返ろうと思っていた。

こちらのお宅にお邪魔して、お話を伺ったところ、ここ2~3日容体があまり良くないとのこと。
この方Sさんを目の前にした時に、
自分が入り込むスペースなどないのではないか?そんな印象を受けた。

病とモルヒネの影響で意識も話すのも辛いはず。
Sさん
一度は起き上がってベッドに座ってくれたものの、やはり辛いと言うことで横になった。
ベッドの頭側と足側にはスペースがないために通常の操法は出来ない…。
正直…
「何が出来るんだろう…」戸惑いは当然あった。

左側を上にした側臥位で左手は両太ももの間に挟まれているし、
頭は多分発熱用と思われるパッド。
全てが拒絶されているように感じた。

唯一、目の前に手のひらを上に向けた
右手があり、
「ここ」ってSさんのからだが言っている。

恥ずかしいけど頭のどこかでは、ご家族に何かしら
「操体法でこんな事をしています」的なアピールな操法をしたかったのかもしれない。

でも、この右手しかない!
それくらい、この右手は一番存在感を出していた。

痛みでパニックを起こしたときにも、手を握って欲しいとのリクエストが多くあるとの話も聞いたので、右手以外全てガードしているようにも見えるのにも納得がいく。

少し血色が薄い指を一本一本触れながら、感触をたずねる。
「どの指が一番いいですか?」
「薬指…」
言い感じの薬指のさらにいい感じを探す。
ここで、水分補給等で一時中断。
再度、手首と足首の皮膚操法。
足首、手首には脈動が感じられ(経験的にからだからのOKサイン。)手首と足首から手を離し、後はからだにお任せするのが最上の方法。

再度
「Sさん、どこか触れて欲しいところはありますか?」とたずねると
「手…」という答えが帰ってきた。

改めて、気負ってなにか特別なことをしようとしていた自分が恥ずかしくなった。
からだも思考も
「右手」という明確なサインを出しているのに…。

そーっとSさんの右手を左手で下から支えて、その上に右手をフワッとおく。

Sさんに聞きながら、そして、自分の感覚を頼りながら、1~2ミリ程度、皮膚を動かす。
ただ、それを感じる。
ただ、それだけ…。
「治れ!!」とか「楽になれ!!」とかコントロールする意識はそもそもないし、必要性もない。
端で見ていたら、ただ手を添えているだけにしか見えないかも。

でもね、呼吸がよりゆっくりと深くなる。
変化が見える。
時間にしたら、10分とか、もしかしたらもっと短かったのかもしれない。
眠ってしまったように感じたのと同じくらいに訪問の看護師さんが来たので、そーっと右手から離脱。

看護師さんとも少し話すことが出来た。
Sさんとのやり取りのわずかの言葉、表情から、看護師さんも薬が限界に来たその後に患者さんに何をどうしていいのか…その対応に閉塞感を感じている。
そんな、印象を受けた。
「何かしていただいたんですね♪」そんな言葉を頂いたので、こんな事をしています。と、簡単な説明と実際に手首触らせて頂いて、その仕組みと効果と説明をした。

その看護師さんは
「たったこんな事でからだが変わるんですか?…」と不思議がっていた。
からだだけではなくて「操体法」は
「メンタル」にも大きな影響がある。

たった皮膚を1~2ミリ動かすその変化、影響って
ほぼ99.9%の人は知らないこの事実。

薬の限界が来たその後の閉塞感、現場の看護師さん達が一番感じているのかもしれない。
この看護師さんが働くクリニックの医師はとても先鋭的な医師らしい。
いつかこのクリニックの医師や看護師さんたちにお話や体験してもらえる機会があったらいいなと思う。

この話の依頼を受けた時から気になっていたこともある。
病気のご本人は当然だけれど
日々、看護に当たるご家族には、心身の負担がとてつもなく大きいということ。
その負担をもっと、もっと軽減することを重要視したほうがいい。

今回の大きな目的の一つは、操体師がいなくても出来る方法と看護に当たるご家族の心身の負担を大きく減らせる方法を伝えること。

昨日のブログでの「宣伝」の部分。

操体法は人にする事で自分自身もすごく癒される方法。

だから、ご家族にも皮膚操法をレッスンをした。
皮膚操法は本当は高度な意識の調整とすごく繊細な感覚と高度な技量を要求される。

意識にも与える影響は少なくない!!

日頃からからだと物を粗雑に扱っている人には正直難しいかも。

でも、基本は
産まれたばっかの赤ちゃんを抱っこするとき、触れるとき、その気持ち、感覚で触れてもらったらそれで十分間に合うかも知れない。

おかあさんが2~3日前から膝が痛くなって、横座りも出来なくなっているということなので、皮膚操法と一緒に膝倒しもやってみた。

最初の検査で万歳をしてもらうと左腕が上がり難い。
おかあさん曰く
「ペースメーカーが入っているから。」
膝倒しを2回やったかな?
万歳もスムーズになり
横座りも難なく出来るようになった。
膝の痛みも無くなったようだ。
「!…」
「ここでの看護も自分が辛くなるまでやる必要はないんです。
一生懸命は大切だけど、自分の苦しい思いはSさんにも伝わっちゃうんです…。だからもっと楽していいんですよ。」
「…以前にSに『ごめんね』って言われたことがあったんです。もしかしたら、苦しさが伝わってたのかもしれない…。」
頭が求めることと
からだが求めることは方向が違うことが多い。

操体法をすると
そこに一貫性が出てくる。

不思議なんだけど、その場の空間、空気が穏やかにまったりする。
空気感が変わる。

自分にとっては結構簡単な事だけど
固定観念に囚われている間は
からだってあんまり変化を見せない。

簡単って思うし言うけど
本当は他の人にはそんなでもないのかも。

一昨日の話では、Sさんのその後はいつもと変わらなかったらしい。

でもね、おかあさんは
「来てもらって、本当に楽になりました。」
そんなことを言ってた。

昨日の言葉から、今後は行くことはないのかも知れないけど。

それはそれで別にかまわない。
自分のなかでは
「兵に将たる能力」よりも
「将に将たる能力」に重点をおいて
それを磨いているから。

操体師として操体法を実践するなかで、目の前で展開する出来事。
これについての自分なりの考察。

専門書を読み解く能力はないけれど、これまで読んださまざまなジャンルの本。

人から聞いた話。

断片的な情報や出来事を集めると、共通点が見えて来る。
この共通点の断片は研究者が解き明かしてくれ、書籍やネットで簡単にわかりやすく提供してくれている。

一つの例を挙げると
今時の世の中は多くの人が意識しないうちに社会の情報に刺激され続けて、
常に「戦闘モード」。
アドレナリンが常に垂れ流し状態。
アドレナリンはかなり強力な毒性を持っているらしい。
毒はここ一番で使うから「薬」となり「パワー」となる。

日常的に内部、外部に敵を造り出す。
競争する。
争う。

そんな状態が
調和し回復の余地を無くして、
逆に病を呼び込み、
自らのからだを蝕み
苦痛を造り出す。
そんなように思えるよね。

もし、からだとこころが
「戦闘モード」から
深い「休息モード」に入るなら
そこに調和と回復のためのスペースが見えてくる。
やっとその時、治癒力が発揮出来るスペースが出来る。

いざわは第1と第3の脳に働きかけをしながら、時には第2の脳も巻き込んで
また、意識と感覚を調節しながら
深い「休息モード」に入る操法をしている。

ここが出来たなら、自覚出来ようが出来まいが、からだに変化は起こっている。

実際に今までパニックの症状が出た場面で症状が出ずに、すんなり眠った。
これまで見たことがない、ヨガみたいな姿勢で寝てる。
訪問中にそんな言葉を聞いた。

この先は
「からだに委ねる」
「からだにお任せする」

操体法では「知識」はなんの役にも立たない。
「実践」と「実感」の世界だから。

「あーそれ知ってる」
「そんなことは知ってる」
そんな「知っている」ことはからだが治るためにはなんの役にも立たない実践の世界。

自分自身の可能性を少しでも引き上げるために
「呼吸」
「食べるもの」
「からだの感覚、使い方、行動」
「想い、意識」を
より調和させられるように実践しているだろうか?

それを伝えることが
なんと思われようが
なんと言われようが
時々こうして挫折しそうになるけど
いざわなりの
「思いやり」の形。

誰かの言葉
「奇跡は自然の法則の中でしか起こらない。」