北海道の開拓期、昼まだ暗い原生林を伐り開き道を作ることから始まりました。

 それは蚊やブヨとの戦いだったり、厳寒との戦いだったり。

 熊や狼の恐怖があったり。

 過酷なものがありました。

 

 北海道には、朝鮮半島から、中国から、開拓という名の強制労働で多くの人が送り込まれた歴史があります。

 そして多くの囚人が作業にあたりました。

 

 刑務所という名になる前に置かれた収容施設が集治監。その後監獄となり、現在の刑務所と名称が変わります。

 

 北海道空知の道路、鉄道、炭鉱での過酷な任務に就いた囚人を収容していた樺戸集治監。

 全国的には東京、宮城に次いで3番目に設置された集治監が月形町の樺戸集治監です。

 

 主に明治政府に反抗する「反逆士族」と呼ばれた人たち、民主主義の名の下政府に服従しない「思想犯」、凶悪犯など、当時の社会では死刑にするほどじゃないけど、死んでも構わない人たちが送り込まれた樺戸集治監。時代劇でいう島流しというイメージがわかりやすいかと思います。(不適切な言い方を含んでいますが、当時の政府の言い分を表現する為あえて使いました)

 

 集治監に関する書籍は少なからずありますが、その立場で言い分が変わりますので、どれが正確な記述か不明な部分があります。

 だから諸説あるうちの一説ですと紹介するか、食い違う部分をカットするか迷うほど……。凄惨な現場であったことは事実というにとどめておきます。

 

 ただ、囚人作業が世間からの批判で廃止された以降、タコ部屋での過酷な土木事業が繰り返されたのは、集治監時代の囚人作業を真似たものという説があります。

 

 樺戸集治監は、1881年開監で北海道各地にある集治監の本館。各地の集治監を分館として、各分館の作業に合わせ囚人の移動など管理していました。

 

 その後世情が落ち着くと政治犯が減少し、北海道に送りこまれる囚人が少なくなり、監獄法の整備で道内の監獄が整備されました。

 開監から39年で廃監となった樺戸集治監。

 

 過酷な作業は1046人の命を奪いました。

 そのうち24人の遺体は遺族に引き取られました。

 残る1022人の遺体が眠っているのが「篠津山囚人墓地」。

 全ての囚人の遺体を把握していたのに驚きです。

 

 以降のタコ部屋労働との違いは、遺体を道路渕に埋めたり、人柱にするのではなく、囚人作業での死亡記録を残していたこと。

 特に、初代典獄月形潔は人権への配慮は集治監職員だけじゃなく、地元住民からも尊敬を集め、集落の地名を「月形」としたほどです。

 過酷な作業を強いた張本人ですが、囚人の最期の尊厳は守る人でもありました。

 

 そんな歴史があるから北海道に道路や鉄道があり、石炭があったから厳しい冬を乗り切って生きてこれた。あまりに多い数の犠牲ですが。合掌。