みなさま、こんばんは。
食欲大魔人・とらさん🐯です。
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先日の↑このブログを書いた後に、ブワッ!と蘇った記憶があります。
自分の狭量さと醜さを露呈させる事なので、それを吐き出して人から嫌われる事を恐れ、今迄吐き出せずに記憶の底に沈んでいた内容でした。
・・なのですが、今なら出せる・・と云うか、ここで記憶が浮上してきたからには、今吐き出さねば山を越せない様な気がするので、思い切って吐き出す事に致します。
私の冷たい内面を見たくない方は、この先は読まないでください。
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今から遡る事13年前の3月、畑仕事をしに行った父が畑で倒れ、大腸ガンだと云う事が判明しました。
そして父は入院をしたのですが、その時弟は夜勤で、私と母の二人で夜を過ごす事となりました。
いつも母は父と二人で一階で寝ており、私は二階で一人で寝ておりました。
夜、私が床に就いていると、枕を抱えた母が、べそをかきそうになりながら、私の部屋に来て「一緒に寝ていいか?」と言って来ました。
母の苦悩の種である舅姑・小舅小姑がこの家から居なくなってから、父の横に着いて、やいやい世話を焼いていた母ですから、不安と寂しさに押し潰されそうになっているのだと云う事は、すぐに分かりました。
・・なのですが、私は一人でないと気になって眠りに落ちる事が出来ません。
スーパーマーケットのチェッカーをしていた私は、一旦レジに入ると、2〜5時間経たなければ休憩に入れませんが、集中力のピークは2時間程。
混んでいる時はひっきりなしでお客様が入るので、消耗は半端ないし、ミスをすると反省書を書かなければならない為、体力の温存は最優先事項でした。
それでなくても、既にストレスフルで、免疫力が落ちると発症する病気を抱えていた私は、母の気持ちを慮るよりも先に、そうやって私に寄り掛かって来る母に、怒りが沸騰してしまったのです。
怒りをぶつけたくなる気持ちと声を押し殺して、私は母に言いました。
「わし、明日も仕事だもん。人が横にいたら、寝れない。悪いけど、一人で寝て。」
拒絶の言葉を吐かれた母は、べそをかきながら、すごすごと一階へ戻って行きました。
母が心細くしている事は判っていたし、罪悪感も感じたのだけれど、それ以上に激しい怒りに飲み込まれ、もうどうしようもありませんでした。
(「大人のくせに、あんたはそうやって子供に寄り掛かる!自分の悲しみを優先して子供に寄り掛かれて、いいよな!(・・じゃあ、私はどこに寄り掛かればいいんだ!!!😭)」)
その時の私は44歳でしたから、世間一般的には、とっくに世代交代をして、一家の中心でいるべき歳頃でしょう。
それなのに私は、家を支えられるだけの、大人としてのキャパが、無い。
それを考えれば、私だって母を非難する事は出来ないのだと、頭では理解出来ただけに、自分の駄目さ加減に押し潰されそうになりました。
そして、父の手術が成功し、日常が戻ってくるうちに、いつしかその事を忘れました。
約4年前に心身症を発症してから、何度もカウンセリングを受ける様になり、それで思い出した時もありましたが、この事を話す事はありませんでした。
そしてまた、この事を忘れていたのですが、冒頭のリンクのあの記事を書いた翌日、いきなり記憶が浮上し、『あの時助けてくれなかったくせに、お母さんばっかり (私に寄り掛かって、そんなのは ) ズルイ!!!😭』と云うハッキリとした思いが、頭の中にブワッ!と溢れたのでした。
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中二の時、私はイジメ遭っており、我慢も限界が来て、意を決して母に「学校に行きたくない!😭」と打ち明けました。
そうしたところ、母は「我慢してくれ」と云うひと言でシャッターを下ろし、その後、取り付く島もありませんでした。
そして、その夜、私は自殺未遂をしたのでした。
・・その頃は丁度、父が取引先と揉めており、ノイローゼ気味になっていたので、母はその事でいっぱいいっぱいだったのでしょう。
キャパの狭い両親ですから、「あの時は、仕方なかったのだ・・」と、その事を思い出す度に、いつも自分に何とか言い聞かせて来ました。
・・でも、母がその時出来うる事として、私を我慢させるしかどうしようもなかったのだとしても、せめて話を聞く位はして欲しかった。
「あの時助けてくれなかったくせに!!!😭😭😭」
父入院の時に私が母に取った態度は、母が私に取って来た態度と同じであり、そしてそれは、結局これまでの母のして来た事に対する仕返しでしかなかったのですよね;;;;
・・情けない。(´°̥̥̥̥̥̥̥̥ω°̥̥̥̥̥̥̥̥`)
母の行動は、母だけを責める事は出来ない背景があるのですが、それを飲み込んで消化(昇華)出来る程の器が、私だって、てんで無かったと云う事でした。
「あの時助けてくれなかったくせに!」
この辛かった気持ちを唯唯押さえ込むばかりで、成仏をさせていなかったから、あの時からもうすぐ42年経とうとしている今頃、この事が浮上して来たのだと思いました。
・・母に抱く恨みがましい気持ちは、「母に守られ、安心を与えて貰いたかった」と云う、私の渇望の隠れ蓑だったのだと思いました。
(※父は私にとっては恐怖の対象となっていたので、その分、より母に対する渇望が膨れ上がったのでしょう。)
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※ちなみに、中二の時のイジメに関しては、母より先に担任の女性教師に相談したのですが、「相手は両親が離婚して寂しいのだから、あなたの方が我慢しなさい。相手にしなければいい。」との信じられないお言葉を賜り、(←嫌味ですとも💢) 取り合って貰えませんでした💢💢💢☠️☠️☠️
それで14歳が自殺未遂してんだよ!👹👹👹
ふざけんな!💢💢💢
マジサイテーだわ💢💢💢
👹☠️👹☠️👹☠️
・・そう云えば、自殺未遂した後日の事、どう云う風に過ごしていたか、思い出せないんですよ。
私にもそう云う記憶欠落って云うものがあったんだな・・と、今更ながらに分かりましたわ。
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母に父との縁談が来た時に、父は我が家の難しい状況を母に話し、それでも覚悟があるのなら来てくれ、と話したのだそうです。
母がそう云う事を聞いても、我が家に嫁ぐ事を決めたのは、実家で姉との折り合いが悪く、いつも苛められていたので、とにかく家を出たい一心からだった・・との事でした。
母もまた、自らが安心出来る居場所を渇望していたのでしょう。
そして、母が自分を守る術は、我慢か逃げるしかなかった、と云う事なのでしょう。
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親・・特に母親にとって、「子供が小学校に上がる」と云う事は、安心出来る節目の様です。
配偶者が手放しで自分を安心させてくれない事に失望した母は、私が小一になるなり、その配偶者である父についての愚痴を、父の子でもある筈の私に垂れ流してくる様になりました。
それに音を上げて、担任の女性教師に泣き付いたら、「そんな事を言っちゃ駄目!」とたしなめられ、私は「自分が悪い事をしたのだ」と云う思いを植え付けられました。
そこから、母の愚痴を聞くのがツライと云う事を誰にも言えなくなり、(言ったところで親を敬えない私が悪いと責められるだけだから;;;;) その後30年間、母の愚痴聞き役から逃げられませんでした。
昭和の悪しき価値観、滅びてしまえ!!!👹👹👹
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母を苦しめた舅姑・小舅小姑の大半があの世の住人となった現在、聞いている私が「うるせえ!💢」と言いたくなる様な勢いで、母は父の横に着いてヤイヤイヤイヤイと世話を焼き、キレた父に大声で怒鳴られています。
母も父も、元はと言えば、お互いにただ、安心したいだけなのでしょう。
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・・今回の打ち明け話は、ここまでです。
重苦しい話に最後までお付き合いくださり、ありがとうございます。m(_ _)m
細野晴臣「銀河鉄道の夜」
少し前のブログにも貼ったんですが、この投稿の締めに何だか合いそうだと思ったので、再び。

