日本最初の土器が見つかった16,500年前から、最終氷期(旧名第四氷河期)が、終わるまで5,000年間を縄文文化草創期と言います。

 その最終が11,500年前です。

 15,000年前から徐々に気温が上がり始め、それが13、000年前までの2、000年間続きます。

 その後に、ヤンガードリアス期と言われている、再度気温が下がった時期があります。

 そして、それが終わるのが11,500年前です。

 その5000年間の事です。

 

 15,000年前から気温が上昇して、自然界が大きく変わったのは当然で、松科の針葉樹中心から紅葉落葉樹が増えて行きます。

 つまり、ドングリを実らせるコナラ類が増え、食生活の変化が見られるようになります。いえ、変化と言うよりも増えたと言う方が正しいでしょう。

 当時の食べ物は、以前にも示したように獣類の捕獲、漁労が主だったのが、温暖化によってクリやドングリなどが増えて行きます。

 

 また、土器も無紋だったのが、横に凹凸の線が入っている紋様に進化します。同時に、直接食生活に関係のない、土偶が徐々に増えて行くのもこの時期です。

 

 この五千年間の間には大きな地域差と時期差があって、13,500年くらいには鹿児島で矢尻が発掘されていますが、他の地域では全く出土されていません。

 この弓矢を使って狩りをするのは、鹿児島の一地域だったことが解りますが、他の地域で発掘されていないだけで、その知恵がほかの地域にないとは断言はできません。

 ですが、出土される物から判断できるのは、人類の文化の発達は、非常に緩やかで大きな時期差と地域差があるという事です。

 

 また、この鹿児島の遺跡からは、貯蔵するための横穴や燻製するための煙道なども発掘されていて、木の実の食料を保存するための知恵が窺われます。

 他の地域では、木の実の中でも毒素の有る物の毒抜きの技術があったことも知られています。

 つまり、あく抜き作業があったという事ですね。

 

 でも、それは、それ以前に人間がそれを食べて犠牲になったことも意味しています。

 

 この縄文時代の草創期の5,000年間は、狩猟から自然の木の実へと食糧事情の幅が広がって、それに従い知恵が備わって来たことが明らかなのですが、それが、5,000年も要しているのです。

 

 また、土偶ですが、主に女性像と思われるものが多く、胸や腰の括れ、また、お腹が大きな妊婦と思われるものが多いのが特徴です。

 三重間や滋賀県の遺跡では、女性の上半身と思われる土偶があります。

 

 この土偶は、多くが部分的に壊されていて、人間の病気になった悪い部分の身代わり? ではないかと、考える学者の方も多いようです。

 そして同時に、祭祀に使われた可能性もあり、この頃からある意味宗教的な意味合いがなされていた可能性があるとの説もあります。

 

 また、土器以外の石器でも、当初の打製石器から、研磨する石器へと大きく移行しています。

 つまり、石の欠片の尖った部分を使っていたのが、上記に示したような鹿児島の矢尻などは、石と石をこすり合わせて磨かなければできません。

 同じように、切るためのナイフ型のものも出土されています。

 

 氷期では、大型のマンモスやオオツノジカを捕獲していたものが、15,000年前にはそれも絶滅し、人間の狩猟も変化したのは当然です。

 ちなみに、ナウマンゾウはそれ以前に絶滅したとされています。

 

 それは、氷期とされる中の、15000年前から13000年前の二千年間の気温の上昇が招いた、自然界の変化が人類の生活と知恵にも変化をもたらしたという事ではないでしょうか。

 その後の、気温が下がるヤンガードリアス期でも、そんなに大きな変化はないようです。

 ちなみに、私の考えでは、二千年間の温暖期は、植相から現在とほぼ変わらない気温であり、ヤンガードリアス期は、約20~25℃下がっていたと思われます。

 一概に氷期とは言っても、気温の差は大きく氷の世界と温暖化の世界を繰り返していて、氷の世界が多かった? と、思ってしまいます。

 勿論、現在の温暖な世界に於いても、数千年や万年単位で気温の低下があっても不思議ではない気がします。

 

 そして、この縄文文化の草創期の5,000年間の間の住居跡も発掘はされていますが、永住のような形跡ではなく、短期的な住居跡とされています。

 

 何れにしても、この時期は自然界から得る食料だけで、永住がないという事は、栽培は行われていなかったとされています。

 

 五千年間の歩み……。

 人間がアフリカに出現して、40万年近い歳月でも、これくらい歩みは遅いのです。

 

 では($・・)/~~~