欧米諸国では、寝たきり状態での日本で言う延命処置は行わないんですね。
なので、誤嚥性肺炎で亡くなるという事がないという事です。
私の兄も、その誤嚥性肺炎を防ぐ為に、手にグローブのようなもの(ミント?)、ボクシングのグローブに似ています。
そんな物を着けて、かなりのストレスを感じているようです。
昨日、その病院から電話があり、兄がそのグローブを外して、鼻から入れている管を引き抜いていたそうです。
グローブを自分で外すという行為そものもが、私には信じられない思いですが、事実だけ知らせておきたいと電話がありました。
死ぬ間際の人間に、そんなストレスを与えるのが医療なのだろうか。
ちょっとだけ調べてみました。
欧米豪では、寝たきりの患者はいないという事なのですが、十年、二十年前までは、点滴や経管によって栄養を与えて生かしていたそうです。
ですが、寝たきりで点滴や経管栄養で生きていて何の意味があるか。
それに基づき、現在では自然死に近い状態に切り替えたようです。
もとより、兄も延命治療は断っています。
一旦死の宣告に近いものをされている人間を、無理に多くの管や心臓マッサージなどで生き返らせて、意識のないままベッドの上で苦しい思いをさせて、数日間の延命を図る。
これは、完全に断っているのは、ただ、死ぬまで苦しむのを避けるためです。
では、今の兄の治療はどうなのか。
先に述べたように、欧米豪では管を通して延命させる処置は行っていません。
死ぬまで、自分でグローブを外して管を引く抜くという強いストレスの中で、生きていて何の意味があるのか。
それよりも、穏やかに終焉を迎えさせた方がと、望むのは私だけなのでしょうか。
自分で食べられなくなったら、そのまま、やがて自分で死を迎える。
より、自然死に近い状態の、欧米豪の医の在り方に、兄の事を考えると、その方を選びたくなります。
兄の状態を思うと、彼は今、人生を振り返る余裕はなく、自分の亡き後の事も考える余裕すらない筈です。
つまり、今のストレスに苛まれている状態で、何を考えられますでしょうか。
楽しかったことも、嬉しかったことも、喜んだことも、苦しんだことも、悲しかったことも、そして、故郷の山河も、自分が生きた仕事や家族の事も、何も思い出せず、彼は死んでいく。
それが、無理に生かされている、手に自由が利かない拘束をされているストレスの為に、そんな余裕がないから。
兄が勝手に管を抜いて、その時、栄養を送っている最中だったら、当然、誤嚥性肺炎になります。
本来の死因は前立癌であるはずなのに、それがすり替わってしまうのです。
それも、余分に苦しんだ挙句に。
厚生省の医の倫理に、このような事はないのでしょうか。
欧米豪では、誤嚥性肺炎は殆どないとされています。
それは、寝たきり医療がないためです。
ストレスの為に、自分の死とさえ向き合えない兄。
その方がよほど不幸に感じます。
今日午後二時からの面会に行きます。