江戸時代に、穢多・非人としての言葉、そして行政上の身分が確立していた彼らに対して「身分解放令」が、明治4年に発令されます。これは、太政官布告として行われたものです。

 

 当時の明治政府の重鎮の多くは、天皇側の官軍として戦った薩長土肥の出身者が多くを占めました。つまり、穢多・非人を江戸時代に廃止していた東北地方の出身の藩の方は少なかったのです。最後まで色濃く差別、蔑視が残っていた西日本や九州の出身者の多い明治政府に人権意識があったとは考えにくい事です。

 それも、明治4年と言えば維新から間もない頃ですので、身分解放令よりも優先的な行政は山積していたはずなのです。幕藩体制から天皇中心の近代化を目指した当時の指導者が、たった4年の間にこのような布告を出すと言うのは異例のような気がします。

 でも、前回の記事で書いた、高杉晋作の奇兵隊、そして、官軍には多くの穢多・非人の兵士がいた事を想像すれば、案外その理由が判ろうかと言うものです。それは、ある意味の論功行賞だったと考えるのは私だけでしょうか……。

 

 だからと言って、彼らに思想信条で奇兵隊や官軍に参加したものは皆無で、ただ兵士になれば「食う事が出来る」。理由はそれだけです。

 それまでの彼らの食生活は、農民や心優しき人々からの施し物であり、そして、これも穢多の語源の一部と思われる、自分たちが片づけた動物の死骸を食べていたほどの窮状なので、お米のご飯にありつけることは画期的な事だと言えるのです。

 また、明治政府としても、それから考えられる、いえ、それから目指した富国強兵で多くの兵士が居る事の先読みだったのかもしれません。つまり、兵士の供給源として、彼らをヨイショする必要があったとも考えられます。が、これはあくまでも私の推論に過ぎませんので、史実と誤解されないでほしい。

 

* 余談ですが、奇兵隊の屯所跡を訪れたことがあるのですが、そこの一角に学問所と書いた建物があったようなのです。これも想像ですが、奇兵隊では兵士にも学問……。と言うか、読み書きくらいは彼らに教えたのではないかと思われます。勿論、それは読み書きができないと命令が伝わらないからです。

 尚、跡地と言っても、現在はその上を中国道が通っており、全容を観る事はできません。その一角に、ただ、建物の配置図が書かれているだけです。

 

*また、この文章上でも使っている幕藩体制ですが「」の呼称は、江戸時代には存在しません。これは、明治維新以降使われ出した言葉で、徳川幕府が使う事を嫌っていたようです。藩とは中世の中国では、その者の所有する領地を指しています。なので、徳川幕府は、領地そのものは徳川幕府のものであり、それを、各大名に貸与しているとの考え方からです。

 ですから、黒田藩ではなく黒田領であり、薩摩藩ではなく薩摩領となっていたようです。ですが、私も現在の慣例に倣い藩を使いました。

 

 話を元に戻します。

 身分解放令が出されたからと言って、人々の意識や生活が変わったわけではありません。その後、百年間も差別は続きます。そして、今でも新たな理由で差別があります。

 今は、職業上での差別は無くなりつつありますが、就職差別、結婚差別はまだあります。しかし、之こそ私が入りたい本題なのですが、もう少し先の記述になりそうです。

 では……。