イチョウの大冒険: 世界でいちばん古い木/アラン セール
¥1,890
Amazon.co.jp

 除夜の鐘を聞きながら、特に感動もなく新しい年を迎えた。

 子どもの頃、世界の巨木のことが書かれていた本を読んでいた。その長い寿命に比べて、自分たち人間の寿命の短さを知り、夜の暗闇の中で死の恐怖を覚えた。どうする事も出来ない怖さ。子供には、自分が木に生まれ変わって長く生きながらえたいと願う事のみであった。

 でも、大人になって分かった事。それは、全てのものに終末が訪れること。しかし、一つの終末が次の新しい誕生につながる事。不死は不自然であること。不死は底知れない孤独に生きる事を意味すること。

 現代人の寿命は、古代、いや江戸時代の人間のそれよりもはるかに伸びている。また、交通手段の発達で、短時間に移動できるようになった。その分、過去の人よりも実質的に寿命が長くなっている。

 透析患者の平均寿命は、健常者のそれよりは短いという。しかし、かつては慢性腎不全は死を意味していたのを、今は医療の進歩で生きながらえている。生かしてくれる社会に対して、与えられた命をどう活かしていくのかは、又、別の大きな問題である。免疫力の低下や合併症で、高齢者になる前にこの世界から去っていく仲間と何度お別れをしたか。また、しなくてはならないか。

 かつて、その寿命の長さを羨んだ木の絵本を読んだ。生きている化石と呼ばれるイチョウの絵本を。イチョウは、多くの生物の進化と滅亡を見てきた。自分自身の個体をしての存在の危機の時代も乗り越えて視てきた。それは、種としてのイチョウの目を通してであるが。

 イチョウの木の絵本を子ども達に読んでほしいと思いつつ、自分の残された命の事も思ってみた。新年を迎えたものの、そんな自分の年齢を意識せざるを得ない。

 昨年の後半から、透析時間が5時間に延びた。その事には感謝している。どれほどか分からないが、生きる時間が延びる可能性が、確率と言ったらよいのか、少しは高まったのである。感染症には要注意であるが。でも、先の事は分からない。今を生きる事の繰り返しだよね。充実した生活を送ることだよね。1人でも心が通じる人で出会って、社会にも少しはお返しが出来たらいいよね。などと思ってみる。

 今年の透析は、明後日からである。元旦から2日間、家でのんびりできるのは、透析を導入してから初めてである。そんな折だから、余計な事を考えてしまうのであろう。無常という事は、受け入れねばならないことだが、生への欲が抵抗を試みる。それも仕方ないこと。あらがって、諦めないのである。明らかになっているのに、諦めないということ。子供の頃の暗闇の中の恐怖は、今だって消え去ったわけではない。

 個人として生まれて、個人として故人になるか。しかし、人らしく生きるために、生きている間は、自分以外の人と共に、生きる事の共有を図りながら、楽しく、時には激しく生きていくのが人間であろう。社会や集団で生きていくのは、個人主義の延長である。利己主義ではないから、そこには、共感や優しさや温かさを生まれてくる。現代は、コミュニティが崩壊してしまって、個人主義よりは利己主義がむき出しになってしまったが。新しいコミュニティを作る事、それも、現代人の生きている意味なんだよね。

 透析患者団体も社会の縮図だから、自分のために共に生きようとする人が少なくなっている。まずは、その新しいコミュニティが出来たらいいな。課題を持って生きる事が、仲間を作って生きる事が、暗闇に灯をもたらしてくれそうである。

 ケセラセラとか、Let it be.という事が出来るのは、友人や仲間がいるからだよね。

 素直に、新年おめでとうと言えばいいんだよね。

 結局、取り留めのない事を書きながら、元旦の時間はあと少しを残すのみである。


トッペイのブログ

トッペイのブログ
 昨年の12月の「ふとっちょソックス」の展示から。八王子のいちょうホールで行われました。

 浮いているような顔のない少女のひとがたは、現代人を象徴しているようでした。でも、この浮揚感から離脱して、自分の足でしっかりと大地に立てること、それが希望です。(作品は、「あじさい」さんのものです。)


トッペイのブログ
 今年は巳年です。空の雲の描いた蛇の写真です。