上の写真は、撮ってから3年くらい経つのでしょうか。駅近くの陸橋がまだ工事中の時のものです。
記憶なんて、日記でも付けていない限り曖昧なものです。
この写真の人物もたまたま写真に写ってしまった。でも、画像として固定してしまったので、こうして写真の中を歩き続けているわけです。記憶と似ているところは、この写真から受ける感情が、ひどく主観的なものだということでしょうか。この人物は、赤の他人ですが、その影は僕の視線か見た世界に貼り付けられてしまった。
昨年の秋に思いがけず亡くなったAさんは、今でもどこかに生きているような感じがします。透析室の彼の居たベッドは別の人が使っていますが、どうしても目が行ってしまう。クリニックの近くにあるモスバーガーの前を通ると、中に彼の気配を感じる。お気に入りのモスの店は、別の所にあり、元気な時は僕を誘って車で行ったっけ。片麻痺になってから、利用しだしたのがクリニックの近くの店というわけだ。杖を付きながらも、喫煙室に入ってしまう。
彼の苦しいという病院からのメールがまだ残っている。何度か送ってきた。あの時は、多忙と疲労を理由に病院に行けなかった。行くのも怖かった。
中年の杖を着いた人を見ると、彼の姿とダブってくる。
まだ、街の中を歩いているような気がする。去年の11月のお通夜には参列したのに。祭壇の前の写真を見て、自分が間違った場所に来たのではないと実感した。お棺の中の死に顔は見ていない。
曖昧になる記憶と、彼の残像が残った。