認知症老人の詩 ~消えかかる記憶を辿って~ -2ページ目

認知症老人の詩 ~消えかかる記憶を辿って~

認知症で要介護5の母が2022年6月に永眠しました。享年94歳。これは、おぼろげな呟きに込められた思い出の場面を辿った介護日記です。

今年の健康診断で再検査が必要となり、その後、入院・手術となって、幸い大事には至らなかったものの、これまであまり深く考えることのなかった自分自身の寿命や、これまでの人生を振り返ったりしていました。

 

そんな折、この曲をYOU TUBEで見つけて思わず聴き入ってしまい、久しぶりにブログを書こうと思いました。

 

 

40年ほど前に発表されたアルバムの、締めくくりの曲として収録されていたのですが、当時はあまり深く聴きこまずにいた曲です。

 

------------------------

 

この歌の舞台とされているのは、かつて千代田区にあった「フェヤーモントホテル」のティールーム。このYOU TUBE映像には千鳥ヶ淵の情景が映っています。

 

20代の頃、私はフェヤーモントホテルの近くにある会社に勤めていました。ここで歌われているティールームにも何度か行ったことがあります。ただし、千鳥ヶ淵に桜が咲く時期は大変な混みようで、この歌のような風情を感じることはありませんでしたが…。

 

  四月ごとに同じ席は 

  薄紅の砂時計の底になる

  空から降る時が見える

 

初めてこの歌を聴いた20代の頃は、ユーミンらしく美しい情景描写だと感じるぐらいでしたが、今の年齢で聴き直すと、冒頭に登場する老夫婦の姿が心に残り、時の流れに対する苦さも含んだ切ない感情が湧き起こりました。

 

そして、私が思いだしたのは、ユーミンとは全然関係ないルキノ・ヴィスコンティ監督の名作「ベニスに死す」でした。劇中に桜が登場するわけではありませんが、ある事柄が共通するように思えたからです。

 

------------------------

 

「ベニスに死す」は、子供の頃からテレビを通じて私に多くの映画を教えてくれた“師匠”とも呼ぶべき淀川長治さんお気に入りの映画。40年ほど前に一度だけ参加することができた淀川さんの講演会でも、この映画に関する話を聴きました。

 

有名なあの口調で「なんとも知れんコワいコワい映画ですねぇ。皆さん、じっくりと御覧なさいね」…と語られるのですけれど、その“コワさ”を当時は十分に理解できていませんでした。

この映画をテレビ放送で初めて観たのは中学生の頃。いくら名作だと言われても、わけのわからない映画としか思えず、途中で寝てしまった覚えがあります。その後、何度か観直しましたが、それでもあまりピンとこない…というのが正直なところでした。

「ベニスに死す」の内容を思いきり省略して書いておきますと…

<Wikipediaより要約>
舞台は20世紀初頭のベニス。この地に静養のため訪れた老作曲家は、ふと出会った美しい少年に理想の美を見い出し、彼の姿を追うようになる。やがて、ベニスの街に疫病が忍び寄る中、老作曲家は白粉、口紅、白髪染めで若作りをして街を彷徨い、浜辺で遊ぶ少年の姿を遠く見つめながら死んでいく。

 

 

「変態オヤジが美少年につきまとうストーカー話」と言えばそれまでで、それはそれで確かにコワいですが、そういう意味合いのお話ではなくて…

 

命を削るように芸術を追究し、人生をかけて美を追い求めてきた作曲家が、年老いて心身ともに疲れ果てて出かけた旅行先で、な~んにも考えてないような少年の美しさに出逢ったことによって募る“敗北感”のような気持ち、そして、少年に相手にされなくても彼の美しさを追わずにいられない誘惑、陶酔、屈辱、さらに、老いて醜くなっていく自分自身の肉体に対する絶望…淀川さんは、それらを集約するような“コワい”セリフとして、老作曲家が語るこんな一節を紹介していました。

 

「父の家に砂時計があった。砂が落ちる道が狭いので、最初のうちは砂が減っていることを誰も気にとめない。そのことに気づくのは、砂が僅かになった頃だ。しかし、慌ただしく落ちていく砂の流れを止めることはできない。そして終わりがやってくるのだ」

 

このセリフを引用しながら淀川さんは言いました。

 

「これが人生ですね。どんなにお金や地位や名誉があろうが、砂が落ちていく速さは、みんな、私もあなたも、生まれた時から死ぬまで同じです。でも、私たちはほとんどの場合、そのことに気づかないまま人生を送ってしまう。そして年老いた時、砂が落ち続けていたことにやっと気づくんです」

 

「経る時」の冒頭に登場する老夫婦、さらにYOU TUBEの音源は最近のライブ録音らしくユーミンの声も枯れているだけに、今の私には、この歌詞に上記のセリフが重なるように感じられたのでした。

 

  四月ごとに同じ席は 

  薄紅の砂時計の底になる

  空から降る時が見える

 

私自身、年老いた両親を介護して見送り、60代になってからは自分自身の“人生の砂時計”の砂も減ってきたのだと考えるようになりました。そして、先日の入院・手術によって、さらにその思いが現実的に強まり、砂が落ちていく速度を切実に感じるこの頃です。

 

------------------------

 

いつもなら健康診断に行くのは年末で「面倒だなぁ」などとボヤキつつ重い腰を上げてやっと行くのですが、今年は珍しく早めに行きました。かといって、特に健康を気遣ったというわけではなく、たまたまいくつかの偶然が重なっただけだったのですが、担当医によれば「もう少し発見が遅かったら厄介なことになっていたかも知れませんよ」とのこと。私が「早めに健康診断を受けたのは今年が初めてなんです」と応えると、医師はちょっと驚いた様子で「虫の報せだったのかも知れませんね」と呟きました。

報せてくれたのが神様なのか、ご先祖様なのか、それとも何か見えない別の存在だったのか、そういうことは全然わかりませんが、とにかく感謝して生きていかなければ…などと殊勝なことを考えながら、ユーミンの「経る時」を聴き直し、20代の頃に過ごした懐かしい場所の映像に見入っていました。

ただ、枯木立が桜並木であることを春にならなければ思い出さないように、また体調が回復すれば、喉元過ぎればなんとやらで、ついつい砂時計の底に降る時の一粒々々を疎かに過ごしてしまいそうな、そんな愚かな自分を予感していたりもするのですけれど。