人は死んだらどうなるのでしょうか。多くの人にとって、死は謎に包まれ、恐怖、不安、絶望を呼び起こします。また、亡くなった愛する人は死んだのではなく、別の世界で生きていると信じている人もいます。
今日は、聖書がどのように説明しているかを見ていきます。
読みやすいように、目次を追加しましたが、最初から順に読むことをお勧めします。そうでなければ、きちんと理解できません。
目次
- 人はどのようにして造られましたか?
- 魂は不死ですか?
- 聖書は、現在の私たちの状態をどのように描写していますか?
- 人は死んだ後、意識があるのでしょうか?
- 人は死後、考えることはできるのでしょうか?
- ソロモンは人が死ぬとどうなると言っていますか?
- 死によって神のもとに帰る「霊」とは何でしょうか?
- 死者は神を誉めたたえることができますか?
- 死は何に例えられていますか?
- 黙示録14:13では「死」についてどのように言っていますか?
- 善人は死んだらすぐに天国に行くのではないのですか?
- 義人のよみがえりはいつ起こりますか?
- 神の民が不死を受け取るのはいつですか?
おまけ①:イエスは、十字架にかけられた犯罪人に「あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」(ルカ23:43)と言われたのではないでしょうか?
おまけ②:ヨハネ11:26の「生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。」と言われたイエスの言葉を説明できますか。
1.人はどのようにして造られましたか?
人が死んだらどうなるかを考えるには、まず、人がどのようにして造られたのか理解しなければなりません。
「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった」
(創世記2:7)
聖書には、神が土のちりから人の体を作り、命の息を吹き込まれたことによって、人は生きた者となったと書かれています。この「生きた者」の「者」という言葉はヘブル語では、「ネフェシュ」といい、「魂」「人(創14:21)「生き物(創1:20)」などと訳されています。聖書の翻訳によっては、「生きた魂」と呼んでいます。
つまり、「ちり」+「命の息」=「生きた魂(人間)」なのです。ちりから造られた体に命の息が吹き込まれることによって魂(人間)となります。
<参考>
「魂(soul)」という言葉は、英語では日常的に、人間の別の呼び方として使われます。聖書にも以下のような箇所があります。
「そこで、彼の勧めの言葉を受けいれた者たちは、バプテスマを受けたが、その日、仲間に加わったものが三千人(three thousand souls:三千の魂)ほどあった。」
(使徒2:41)
2.魂は不死ですか?
「見よ、すべての魂はわたしのものである。父の魂も子の魂もわたしのものである。罪を犯した魂は必ず死ぬ」
(エゼキエル18:4)
また、からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい。
(マタイ10:28)
「神はただひとり不死を保ち、近づきがたい光の中に住み、人間の中でだれも見た者がなく、見ることもできないかたである。ほまれと永遠の支配とが、神にあるように、アァメン」
(1テモテ6:16)
聖書は、神のみが「不死」であると言っており、人間について不死、不滅であるとはどこにも書かれていません。不死は、神が私たちに与えてくださるものなのです(後述)。
ちなみに、マタイ10:28の「滅ぼす」の原語をストロングで調べると、"destroy fully, destroy, die, lose, mar, perish(完全に滅ぼす、(文字通り又は象徴的に)滅ぼす、死ぬ、失う、ひどく傷つける)"とあります。
3.聖書は、現在の私たちの状態をどのように描写していますか?
「わたしは人(mortal)を精金よりも、オフルのこがねよりも少なくする(尊いものとする)。」
(イザヤ13:12)
「人(mortal)は神の前に正しくありえようか。
人はその造り主の前に清くありえようか。」
(ヨブ4:17)
旧約聖書には、「人」について「エノーシュ(mortal、死すべき者)」という言葉が45回使われています。
4.人は死んだ後、意識があるのでしょうか?
「生きている者は死ぬべき事を知っている。しかし死者は何事をも知らない、また、もはや報いを受けることもない。その記憶に残る事がらさえも、ついに忘れられる。その愛も、憎しみも、ねたみも、すでに消えうせて、彼らはもはや日の下に行われるすべての事に、永久にかかわることがない。」
(伝道の書9:5-6)
5.人は死後、考えることはできるのでしょうか?
「その息が出ていけば彼は土に帰る。その日には彼のもろもろの計画(エシュトナ:思考)は滅びる。」
(詩篇146:4)
6.ソロモンは人が死ぬとどうなると言っていますか?
「ちりは、もとのように土に帰り、
霊はこれを授けた神に帰る。」
(伝道の書12:7)
聖書のどこにも「魂」が神のもとに帰るとは書かれていません。聖書に「魂」という言葉は約1800回出てきますが、「不滅の魂(immortal soul)」という表現はどこにも出てきません。
7.死によって神のもとに帰る「霊」とは何でしょうか?
「主なる神はこれらの骨にこう言われる、見よ、わたしはあなたがたのうちに息を入れて、あなたがたを生かす。
…わたしがわが霊を、あなたがたのうちに置いて、あなたがたを生かし、」
(エゼキエル37:5、14)
「…あなたが彼らの息を取り去られると、彼らは死んでちりに帰る。…あなたが霊を送られると、彼らは造られる。」
(詩篇104:29、30)
聖書を通して、人の「霊」と「息」は同じものを指しています。人が死ぬ時、神のもとに戻るのは、命の力である神の息です。詩篇の作者であるダビデは、「その息(霊)が出ていく(詩篇146:4)」と言いました。それは意識のある存在でも、不滅の魂でもありません。旧約聖書を通して「息」を表すヘブル語は「ルーアッハ」です。この言葉は、空気、風、霊を意味します。ヨブ記27:3には「…神の息がわたしの鼻にある間」とあります。人が死ぬと、この「人の霊」つまり「神の息」が神に戻ります。
8.死者は神を誉めたたえることができますか?
「死においては、あなた(神)を覚えるものはなく、陰府においては、だれがあなたをほめたたえることができましょうか。」
(詩篇6:5)
「死んだ者も、音なき所に下る者も、
主をほめたたえることはない。」
(詩篇115:17)
神はその憐れみのうちに、私たちの死に際し、この世のあらゆる悲しみ、苦しみ、失望に対して私たちの目を閉じてくださいます。「死者は何事をも知らず」(伝道の書9:5)、「死においては、あなたを覚えるものはない」(詩篇6:5)のですから、「死んだ者が…主を誉めたたえることはない」のは道理にかなっています。
9.死は何に例えられていますか?
「…わたしは死の眠りに陥り」
(詩篇13:3)
「また地のちりの中に眠っている者のうち、
多くの者は目をさますでしょう。」
(ダニエル12:2)
「わたしたちの友ラザロが眠っている。
…ラザロは死んだのだ。」
(ヨハネ11:11-14)
死は、聖書の中で50回眠りに例えられています。聖書を信じるクリスチャンにとって、死は安らかな眠りにすぎず、恐れるべきものではありません。熟睡しているとき、私たちは時間の経過をまったく意識しません。私たちは休息しています。それは完全な休息です。
10.黙示録14:13では「死」についてどのように言っていますか?
「…『今から後、主にあって死ぬ死人はさいわいである』。御霊も言う、『しかり、彼らはその労苦を解かれて休み、そのわざは彼らについていく』」。
(黙示録14:13)
英語では、人が亡くなると、"RIP (Rest in peace)"と言います。これは「安らかにお眠り(お休み)ください」という意味です。死は眠り、しばしの休息を意味します。
11.善人は死んだらすぐに天国に行くのではないのですか?
「このことを驚くには及ばない。墓の中にいる者たちがみな神の子の声を聞き、善をおこなった人々は、生命を受けるためによみがえり、悪をおこなった人々は、さばきを受けるためによみがえって、それぞれ出てくる時が来るであろう。」
(ヨハネ5:28、29)
「兄弟たち、先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます。…ダビデは天に昇りませんでしたが…」
(使徒2:29、34 新共同訳)
ダビデが天国に行くであろうことは聖書に示唆されていますが、ペテロははっきりと「ダビデは天に昇らなかった」と言っています。ダビデは死んで葬られ、現在もよみがえりを待っています。死んですぐに天に昇るのであれば、よみがえりは必要ないのではないでしょうか。聖書を信じるクリスチャンの望みは、死後そのまま生き続けることではなく、キリストのご再臨の時によみがえることです。
12.義人のよみがえりはいつ起こりますか?
「わたしたちは主の言葉によって言うが、生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが、眠った人々より先になることは、決してないであろう。すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。」
(1テサロニケ4:15-17)
キリストが再び天から下って来られる時、キリストにあって死んだ人たちが、まず最初によみがえります。そして、その時に生き残っている人と共に引き上げられ、空中で主に会うのです。
13.神の民が不死を受け取るのはいつですか?
「ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。」
(1コリント15:51-54)
死は、イエスが戻って来られるまでの間の安らかな眠りです。墓の中では時間の経過を意識することはありません。義人にとって、死の次に起こる出来事はよみがえりです。信仰者にとっての死は、愛する救い主の腕の中での休息にすぎず、恐れるべきものではありません。イエスを受け入れるとき、私たちは永遠の命の賜物と不死の約束を受けるのです。
おまけ①:イエスは、十字架にかけられた犯罪人に「あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」(ルカ23:43)と言われたのではないでしょうか?
イエスは本当に、その日に犯罪人と一緒にパラダイスにおられたのでしょうか?
二日後の日曜日によみがえられた後、イエスはマリヤに現れて、こう言われました。
「わたしにさわってはいけない。わたしは、まだ父のみもとに上っていないのだから。」
(ヨハネ20:17)
日曜日の時点でまだ天に上っておられないのに、その前の金曜日にパラダイスにおられるはずはありません。
では、イエスはどうしてそのように言われたのでしょうか?
このサイトでは、その聖句の原文を見ることができます。
原文には句読点はないため、翻訳時に句読点が追加されました。
つまり、句読点の位置によって、
「よく言っておくが、あなたは今日、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」
とも、
「今日よく言っておくが、あなたはわたしと一緒にパラダイスにいるであろう」
とも読めるわけです。
そして、ヨハネ20:17で、イエスははっきりとまだ天に上っておられないとおっしゃっているのですから、私は、後者の解釈が正しいと考えています。
「私自身が犯罪者として十字架につけられ、誰もが私には誰も救えないと思っている今日、あなたに約束します」と言われたのではないでしょうか。
おまけ②:ヨハネ11:26の「生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。」と言われたイエスの言葉を説明できますか。
これは、すべての人が死ぬ第一の死(ヘブル9:27)ではなく、悪人だけが死に、復活のない第二の死(黙示録2:11; 21:8)を指しています。