岩泉線・岩手刈屋駅の記事を書いたのは、昨年の11月でした。
フィルム写真を整理していると、15年前の冬の写真も出てきたので「旅もよう」と合わせて記事にしておきます。

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電話ボックスが新しいタイプになっている、駅舎前の木が無くなっている。



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ホーム裏の木が伸びている、駅名票が新しくなっている。



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ラッチが無くなっている。


以下昭和63年ころ、各駅に置かれていた「駅でみつけた物語 旅もよう」より、
岩手刈屋にまつわる小話を二つ紹介します。

刈屋太郎

刈屋川は、北上山地の中央部を太平洋に向かって東流する閉伊川の一番支流である。

その源流は、小峰の明神とも呼ばれる堺ノ神岳に発し、明神沢から清水、和井内、中里、刈屋などを経て茂市で閉伊川と合流する、全長約20kmの中河川で、平片川、安庭川、倉沢川、北山川の4支流がある。

毎年、陰暦の6月15日は、刈屋川の主、刈屋太郎のおのぼりの日となっている。

この日、刈屋川の流域の各地では、朝早く川辺にキュウリう供え、1年間の川での無事故を祈る風習があって、今でもこの日の日中は、川に入ることが禁じられ、もしこの禁を犯して刈屋太郎のおのぼりを見たものは、目がつぶれて即死するという。

したがってその正体は、だれ一人として見たものはないが、頭に角二つ、身のたけおよそここのひろの蛇身であって、刈屋神社に仕える召使であるといわれている。

刈屋太郎は、平素、刈屋川の河口近く、茂市の田の岡の沼をその住みどころとし、毎年、陰暦の6月15日、刈屋中里の明神の沼まで、波しぶきをあげて刈屋川をさかのぼり、途中、川崎から倉沢川大滝に立ち寄って昼食をとるのだという。(田の岡の沼や中里の明神の沼は現存しない)

刈屋の発電所

『刈屋村神社帳』の書かれた年、大正6年には、この倉の沢大滝を利用して、水力発電所を作る計画がおこって、刈屋電灯株式会社が設立されました。

社長は小山田栄次郎翁でした。

■仙台土産
小山田栄次郎翁は、先祖代々庄屋肝煎を務めた刈屋村きっての旧家、館の当主でした。

栄次郎翁が、所用で仙台に出向いたとき、とった宿の各部屋の照明が、今まで見たことのない明るさで、それはたいへん珍しい、電気というものであったそうです。

「仙台土産はこれにかぎる」ということで、早速女中に命じて電球を買いよせてはみたのものの、間もなく、発電所のない岩手県では、使用不能であることがわかったわけです。

■刈屋電灯
帰村した栄次郎翁は、わずかな岩のはざまの貧村に、文明の光をかかげるべく、寝食を忘れて発電所建設計画に奔走したのでした。

この計画は、実行に移され、実際に発電が開始されて、刈屋村と茂市村の民家の一部に、初めて電灯がともされたのは、大正9年11月2日のことでした。

このことはまさに、北上山地に初めて文明の光がさしたもので、岩手県では盛岡電灯に続く二番目の事跡です。

その後、刈屋電灯は、昭和13年12月、盛岡電灯と合併し、奥羽電灯株式会社と名称を変えて、昭和17年まで営業されましたが、東北電力との合併によって、この倉の沢の発電所は廃止となりましたが、その遺構は今でも残されています。

佐々木健著「私本・刈屋草紙」より

田舎に残る神話というのは、どこかロマンチックなところがあって好きなんですよね。

発電所の遺構がまだあるというと廃線ではありませんが、訪れてみたいし興味がわいてきます。