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先日、紹介した<厨川駅>の周辺にも、その昔、南北に延びる引き込み線がありました。


これは、1976年(S51)の空中写真で[←左が盛岡駅方向・右が八戸方向→]になります。
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この写真で見ると、厨川駅裏には貨物線があり、その中から画像左上に延びる引き込み線を確認できます。
これが南へ延びているもので、裏手にある日本たばこ産業(JT)の敷地へと続いていました。

一方、北方向へ延びる引き込み線は、この写真では確認することができません。

JTの敷地へ延びていた引き込み線は、新幹線延伸工事が行われる前後まではあったと思うので、覚えている方も多いと思います。しかし、北へ延びていた引き込み線は、更にずっと昔に無くなっているので、マッチ工場だったとか、専売公社のものだったとかあるのですが、結局は何の引き込み線だったのか、いつ無くなったのかは、今回は明確になりませんでした。

わずかな記憶を頼りながら、少しでも何か手がかりがあればと現地へ向かいました。

最初は南へ延びていた線路です。
現在の厨川駅ホームから眺めると、ちょうどこちらの方向になります。
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貨物用の側線があったと思われる場所は、新幹線の高架橋の下になっていて全く遺構はありません。
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現在、痕跡が残っていると呼べるのは、この道路と交差していた場所に踏切があったということで、画像手前から奥へ真っ直ぐ延びていました。
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当時、ディーゼル機関車がコンテナ車を押してゆくところを、何度か踏み切り待ちで見かけたこともあります。
確か踏み切りの前後のアプローチは、少し勾配があって盛り上がっていたと記憶しています。
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そして、日本たばこ産業・盛岡工場の敷地の奥には、使われなくなった貨物ホームだけが今も残っています。
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そのJT盛岡工場も来春で閉鎖という寂しいニュースが、つい最近あったばかりですね。
JT盛岡工場閉鎖へ 来年3月末 - 岩手日報
http://www.iwate-np.co.jp/cgi-bin/topnews.cgi?20090501_2
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あらためて駅裏を見ると、この辺りの敷地はJR東日本・盛岡支社の資材センターになっていました。



そして今度は、北へ延びていた線路です。
同様にホームから見ても、現在は脇を新幹線高架橋がずっと続くばかりです。
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待ち時間が長いと紹介した「元滝沢踏切」。この踏切の手前から分岐していたはずです。
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もちろん、踏み切りから駅方向を眺めても、そこには何もありません。
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実は子供のころ自分は、ここを幼稚園バスで毎日通っていたのですが、
その昔、この踏み切りは線路が何本もあって、バスが渡る度に激しく揺れて大変な踏み切りだという記憶が残っています。
線路は画面下から、左奥へとカーブして続いていたはずです。。。
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現在、この場所には「JR厨川団地」があり、結論から言えば、引き込み線の遺構は皆無でした。
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でも、よく見るとこの団地入口のモニュメント?と言うのでしょうか、枕木を重ねたもののように見え、それがここにあったことを象徴しているように見えます。
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確認の為に白地図にも印しを付けてみました。
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下が、南の引き込み線で、上の矢印が北の引き込み線。こんな感じだったはず。

結局、今回の北の引き込み線のことは情報不足ではっきり分らず終いでしたが、もっとご存知の情報があれば、どなたか教えていただけると幸いに思います。




今回、この団地に入って初めて知ったのですが、団地の一角には東北本線の工事などで犠牲になった人々の慰霊碑が建っていたのです。
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どういう経緯で、ここに慰霊碑を建てたのかは定かではありませんが、きっと何かしらの意味があってのことなのだと思います。
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画像の碑文を読み取れますでしょうか?・・・東北本線複線電化完成の際に建てられたもののようです。
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最後に・・・

鉄路を切り開くために犠牲になった多くの方々への、ご冥福を祈りたいと思います。



次の怪しい遺構へと続きます・・・(V)o¥o(V)

      
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