【境界性人格障害】ボーダー女の治療奮闘日記【トオルっち】自己愛性タイプ

【境界性人格障害】ボーダー女の治療奮闘日記【トオルっち】自己愛性タイプ

現在32歳、実家から逃れ生活保護にて病気治療中。
治療内容と目標:自己分析・瞑想・専門書読破・感情表現特訓・人間関係の維持・脅迫癖の克服・減薬・家族との和解
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お久しぶりです。

 

ADHD(発達障害)、境界性パーソナリティ障害、躁鬱、など

たくさんの病名をたくさんの病院から言われてきた私ですが、

心の状態がとてもよくなってから何度もいきつく言葉が「愛」です。

 

愛はほぼ全ての心を救い、楽にして、体をポカポカと温かくしてくれるものです。

先天性の脳の障害や特殊な何かが関わっての心の病気で無い限り

私は「愛」で治らない心の不調はないと思っています。

 

しかし愛にこだわるのは宗教っぽくて自分が気持ちわるくなりそうだったので

別の方面から色々と試行錯誤する日々なのです。

でも悔しいかなどうしても「愛」が一番重要な要素であるとしか思えない現状です。

 

一番重要なのに…

一番はっきりとしない定義の言葉であり

一番手に入れにくいものです…

 

でも「愛」ってそもそも何でしょうか?

 

「愛」でネット検索をすると以下のものが用語翻訳として出ます。

→そのものの価値を認め、強く引きつけられる気持。

かわいがり、いつくしむ心。いたわりの心

大事なものとして慕う心。

 

とても漠然とした表現であり当てはまりそうなものを連想すると

たくさんありすぎて「むしろ愛ってそんな軽いものでもいいの?」と

不安になるぐらいです。

価値を認めひきつけられる→コレクターが当てはまりますよね

がわいがるいつくしむ→可愛い動物を飼うことが当てはまりますね

大事なものとして慕う→尊敬している人に懐き指示に従うなどが当てはまりそうですね

いたわり→怪我をしている人をみて可哀想と思う心かな?

 

どれも身近にあることが「愛」の意味に合致します。

私が思うに、愛とはこれら全てが「正解」であり、愛のみで構成されたものは

肉体がある限り「存在しない」と思っています。

 

今こうしてブログに文字を書きながら頭のなかでは沢山の言葉が渦巻いているのですが

面倒なのではっきり言います。

・幼少期に正常な愛を注がれた子供は大人になって「小さな愛」を拾えます

・幼少期に正常な愛を注がれなかった子供は大人になっても「小さな愛」すら拾えず存在にも気づけず

体や心にありとあらゆる悲鳴(歪み)が生じます

歪みに病名をつけて薬を処方するのが「病院」です。

愛を具現化し団体で傷を舐めあうのが「宗教」です。

 

 

愛を注がれて育った人間は、身近な愛を吸収する能力があるので、ペットを可愛がるとか

そんなありきたりな行為でも自分の中の「愛」を増やすことが出来ます。

愛が何か「感覚」でわかっているので砂の中からダイヤを見つける困難な作業でも「時間とチャンスさえあれば」

ダイヤを増やせます。

ですが、愛を感覚で認知できるレベルまで注いでもらえず、社会に放り出された人は、

自分の足の下にダイヤがあることすら気付けずひたすら癒しを求めて熱帯砂漠を漠然と歩くだけです。

癒しを求めなければ苦痛も少ないのでしょうが、残酷ながらこの世界は

愛をテーマとしたものが街中に転がってますし、テレビでもしょっちゅう流れます。

幸せそうな他人の顔を見て「自分も欲しい!」という気持ちを刺激されてしまうので

飢えがより一層強くなります。

 

街にこんな老人はいないでしょうか?

何歳になっても明るく活発で誰にでも優しいご老人。

逆に死んだ魚の目で笑顔もなく、目的もなさそうにうろつくご老人。

それらの人をみてあなたは「ああいう老人になりたいな」と感じることもあれば「ああはなりたくない」と

様々に思ってきたでしょう。

 

基本的に人間とは「愛」を探しさまようように出来ているんだと私は思います。

これだけ生物としての歴史があり、脳が発達し、どんな感情も言葉で表現できる時代になったのに

「愛」だけが霞のような存在のままなんです。

言葉で表現できてはいけないものだという謎の使命感すらあります。

 

 

さて、回り道をしてしまいましたが、愛について語った理由は

私の心の状態が安定したときに感じたものが「愛っぽいもの」だったからです。

交際相手の男性が勢いまかせで発した「君が嫌がっても俺はそばを離れない!」という言葉で

彼が愛をこめて発した言葉というわけではないのですが、

私の心がものすごい勢いで「安定」していった魔法の言葉でした。

他の人に同じ効果があるとは思いません。

求める愛は人それぞれ違いますし、私の場合は現実の記憶と置き換えてしまうほど

妄想が強い人間だったので劇的な効果を発揮しただけだと推察してます。

しかし

一度得た「感覚」は消えません。

幸福感、安心感、温かさ、愛しさ、感謝、

さまざまな良い感覚がすごい勢いで私の全身を満たしていったのを今でも覚えています。

それからの私は「何もしなくても」自分への自信がつき(過剰な自信ではなく適度な自信です)

悲しい過去を思い出しても深く落ち込まず、立ち直りも早く

特に変化してよかったと思った部分は「何もしない時間を楽しめる」というところです。

 

数年前までは考え事をするか動くか、不安が強い時は迷惑がられていると分かっていても

誰かに電話をして不安から意識をそらすという行為をし、苦痛から逃げる日々でした。

だから嫌気がさした友人からは嫌われるし、自分は利用されていると察した知り合いも距離をおいてきます。

なので自然と「ごめんね」という言葉が自分から多く出ていましたし(嫌われたら不安から逃げる手段が減るし)

ごめんという謝罪ですら相手のためではなく自分のためです。

そんな自分を好きになれるわけありません。

電話もメールも常に自分から送るのみで「何でそっちからメールくれないの!?私が不安がりなの知ってるくせに!」と

逆ぎれすることも頻繁にありました。

 

しかし現在は、自分からメールする回数と相手からメールが来る回数は釣り合っていますし

なかなか相手から連絡がこなくても「なんでよ!!」と気持ちが揺らぐこともありません。

「まぁいっか」で終わりです。

ゴメンという謝罪の言葉を言うのも激減し、本気で申し訳ないことをしたと思った時にしか謝罪しないようになっていってます。

謝罪しても許してくれない時や離れていってしまう人がいても「まぁいっか」で終わります。

…それでも病的に歪んでいる部分はまだまだありますが…

今後の私は砂の中のダイヤを見つけられる「感覚(センサー)」を得たので

時間と経験が勝手に私を癒し成長させていくという確信を持っています。

それくらい自己肯定がしっかりしてきたんだと推察しています。

 

つまり自分が必要としている「愛」が手に入りさえすれば

認知行動療法だとか、カウンセリングだとか、そういう「なんか難しそうなやつ」に頼る必要なんてないってことです。

その治療の中で探していた愛を結果的に得られた人はまだいいですが

治ると信じ頑張り続ける人やカウンセリングの予約を長々と待っている人には

「待つぐらいなら恋人つくれ」と言いたいです。

だからって恋人や愛をくれる人とそう簡単に出会えない事実も私は知ってます。

血の繋がる親ですらくれない、母が自分の身を削りながら絞り出す愛。

それを赤の他人が簡単にくれるわけありません。

でもチャンスがまったくない人など存在しないです。

自殺しない限り、チャンスは何度でもあります。

そして「自力で何とかする方法」もいくつかあります。

 

代表的なのが瞑想。お寺に入るのが無難です。メリットとしては

・同じ目的の仲間がたくさんいるので寂しくない

・強制ではないのでいつでも離脱できる

・環境が変わり自分を客観視できる

・瞑想により自分が求めている愛を自覚できる(見つけやすくなる)

・宗教そのものが愛で構成されているため癒される確立が高い

・仏もキリストも死者が崇める対象なため愛が消えるという不安を抱かなくてよい

 

デメリットとしては

・(精神的に疲弊しているので当然だが)めんどくさい

・色々なものを捨てないといけなさそうで勇気がいる

・効果があると信じられない

・宗教という言葉がなんかいや

などなど…

 

年齢制限もなくお金も必要なく厳しい罰則すらないようなお寺でも

軽い気持ちで入れるほど私たちには「お寺」が身近ではないんですよね残念ながら。

 

次に自力でやれるものといえば「自分が自分の母親となる」というものになります。

こちらの方法を選ぶしかないという人が一番多そうなので

私も間違った情報を書き残したくありません。

なので今以上に知識を蓄えたのちに、この方法の専用ページを作りたいと思います。

お急ぎの方は「愛着障害(スペース)治療」で検索してみてください。

個人の方々がチラホラと情報を書き残してくれていますのでどうぞ。

 

 

今回のブログはここまでになります。

読みやすくと常に意識して書いているつもりですが文法の乱れや

誤字、伝えたい意味すらはっきりしない気持ち悪い文も多く読者様を不快にさせていることかと思いますが

あえて直していません。お許しください。

私の心の変化が数年後にこのブログで実感できるよう自分のために直さないのです。

逆に数年前の記事を読み、私の文から真実味を強めてくれる読者様がいてくれたらいいなという

願いもこもってます。

罵詈雑言、質問疑問(来たことないけど)来たら対応する気でいますので

お気軽にどうぞ

 

ではでは、最後まで読んでくださりありがとうございました。

今回はテーマが決まらない。

内容がないのではなく有りすぎてひとつに収束できないです。

 

私は他人から「何を考えているの?」と聞かれるのが好きです。

それは相手が私を知ってくれる切欠をくれているからです。

知ろうとしてくれている。そのベクトルに含まれるものが敵意であろうと

反抗心であろうと、純粋な知識欲や興味であろうと、

「知ろうとすること」という姿勢に好感を持ちます。

 

私は…

わたしは、自分の人生がこじれたタイミングを中学3年の時だと思います。

引きこもり歴4年の前半に出会ったのが「炎の蜃気楼」と「京極堂シリーズ」という小説でした。

 

「炎の蜃気楼」では愛と憎しみ、執着心をメインに描かれた人間の葛藤本です。

私はその本により自分の中にある家族への負の感情を「愛の裏返し」として自分にインプットさせるようになりました。

愛しているからこだわる。憎しみが深いのは愛も深いから。

愛が根源となっているならばどんなに憎んでも、それは愛の証明だから許されるだろう、と。

汚い言葉を投げつけたり、無視したり、不登校の理由を家族が原因であると延々悩み続けたり、思春期らしい考えに没頭していました。

 

それと姉達が私に感情をぶつけてくるのも、親が心配して声をかけてくれるのも

無視と拒否を繰り返しつつも、背中でしっかり気配をうかがっていました。

「いつまで気にかけてくれるだろうか」「いつまで私をかまっててくれるだろうか」と。

いつか諦めて存在すら認識されない日におびえつつ、それを誘発させることをしているのが自分だと知っていながら、なぜ相手を威嚇してしまうのか分からないジレンマと戦いながら恐怖と隣あわせの日々を、1人で耐えていました。

 

考える時間だけはたっぷりあったので「かもしれない」という思考を延々と繰り返し、次第に思考も体の感覚も妄想の泥の中へ沈んでいく感じでした。

一番強かったのが「孤独」です。誰かに「それであってるよ」と肯定してもらいたかったです。

そんなときに変わりの肯定役として心の支えになったのが「炎の蜃気楼」という小説でした。

例え内用がフィクションだとしても、感じたことの無い感情を他者を納得させる形で表現しつづけるのは難しいです。

でもその小説は納得させてくれました。

普通であれば言語化不可能の感情を、つたない言葉で、矛盾をはらみつつも、納得する形で表現してくれていました。

答えの出ない感情や葛藤については答えが出るまで諦めないという姿勢を見せ続けてくれる小説でした。

フィクションなのに、孤独が癒されるその感覚は独特です。

小説のキャラクターと自分が同調し、一度受け入れてしまうと…暗黙の崇拝が始まりました。

 

本来の自分の思考ではないのに、小説の中身が「こうである」と道を作れば、孤独に戻ることを恐怖する心が自分の思考に蓋をして小説が引っ張っていく方向へ自分の体を向けていってしまいました。

自分が抱えていなかったはずの感情や問題点まで自分の人生で「起こったかのように」刷り込まれていました。

頭のどこかで「これはおかしい」とわかってはいても、同類の何かを隠れ蓑に使うことで自分の心が家族に直接攻撃されなくなる特殊な感覚に溺れていたんだと思います。

やってはいけないことでした。

簡単にいうと女優として演技していれば誰かに「おまえは頭が狂ってる」といわれても「そういうキャラを演技しているから当然だ」と流すことができたんです。

正気のまま狂人の演技をしつづけ、家族から出る汚い言葉に「やっぱりお前らの心は汚れてる。そんな奴らに囲まれていれば私も汚くなって当然だ。汚いならこんなずるいことをしても当然だ」という方程式に安堵しました。

そう…

矛盾のない世界にただ逃げたかっただけでした。

どうして自分は孤独なのか。どうして人生の道を誤ったのか。自分は愛されていないのか。どうして苦しいのか。

答えの出ない迷路に一人さまよい続けるより、誰かの匂いがする方程式に身を沈める方がよっぽど心が守れました。

でもやってはいけない。

 

自分が味わった事実ではない空想の痛みを、さも自分が家族にやられたかのように罵倒していたんです。

家族側にしてみたらいい迷惑です。やっていないんですから。

でも家族は「やっていない」と言い張れなかったんです。

なぜかというと、私が次に出会った「京極堂シリーズ」の小説が切欠となります。

 

京極夏彦先生の妖怪をテーマにした小説ですが、陰陽師が何度も登場します。

陰陽師というと江戸時代版の占い師的なものを想像されるかと思いますが、簡単に陰陽師を説明すると

「心を騙す事に長けた職業」です。

 

現代の心理学をより実用的にし会話や雰囲気で「相手にそう思わせる」ことに特化していると当時の私は認識しました。

一番分かりやすいのが名前です。

人の名前、動物の名前、道具や風景、すべてに対して名があります。

あなたの名前が「あんどう みお」だとしたら、いきなり名前を呼ばれて反射的に「ん?」となりますよね。

名前を呼ばれると意識せずにはいられない。その反射を陰陽師の世界では「呪詛」と位置づけていました。

本来であればオギャーと産まれた瞬間には「ただそこにあるだけの肉の塊」であり「あんどう みお」ではないです。

名前を呼ばれても赤子は反応しません。

周りがその子を「あんどう みお」にしていくんです。

それは洗脳以外のなにものでもないです。

 

洗脳から派生するものは数多くあります。

社会常識や行動、言葉や反応の仕方、感情にいたるまでありとあらゆるものが洗脳という思い込みで成り立っています。

規則性があり他者と交流することに問題がない洗脳であれば「教養」や「社会性」という名前がつくと思います。

それは争いを好まない人同士であれば良い洗脳と判断され積極的に使われると思います。

しかし個人の願いをかなえるために他者を意図的に洗脳する、まるで宗教のようなものに対して一般的な人は嫌悪感を覚えます。

酷いときには「悪」「犯罪」とみなすと思います。

私はその犯罪を犯し続けました。

 

ありもしない悲劇の女優の演技に洗脳を混ぜ、社会的に正しいことを説いて来たはずの家族に罪悪感を植え付ける作業を何度もしました。

あるときは家族に謎かけを繰り返し、戸惑わせました。

「家族とはなに?」

「血が繋がってないとどうなる?」

「反抗的だと何がいけないの?」

「何に怒ってるの?」

「感情があっちゃいけないの?」

「今しゃべっている言葉の本当の意味をどこまで知っているの?」

「本当の意味、本当に知ってるの?」

「なんとなく、で、そうしていない?」

「最後まで理由を考えた?」

「あなたのやっていることは、正しいの?」

 

私は虐待してくる姉達にこんなことを淡々と語っていました。

答えに窮する姉たちが、最後には「そんなことどうでもいい!とにかく言うこと聞け!」と単細胞動物になりはてると私は心でクスクス笑っていました。

馬鹿が。

あほが。

脳がないやつは最後に力技しか手ごまがないんだな。無様。

そうあざ笑うとともに、一人になったとき、静かな部屋で「だからどうした…自分も口先だけじゃないか…」と泣いていました。

同じ穴のむじなどころじゃない。

自分に脳があるというなら相手に悟られないように相手を気分よくさせないとダメじゃないか。

騒動が起きている時点で失敗じゃないか。

自分のほうがよっぽど馬鹿じゃないか…と。

引きこもりの4年間は泣かない日の方が少ないぐらいでした。

 

ふたつの小説に出会わなければ…、こんなに長く深く心をこじらせることはなかったと今にして思います。

だけど、出会ったことで今の自分になれたことと、蓄えた知識が生活で少し役に立っていること、

それらを考えると別の道を歩んでいるはずの自分を想像することが馬鹿らしく思えます。

いつだって精一杯考えてきた。

やれることを必死でやってきた。

あの時はそうするしかなかったから、あの頃の自分はそれを選んだ。

別の何かがあっても、自分の根本はきっと変わらない。

そこがブレないので後悔というものがあまり生まれず今を歩んでいます。

 

しかし、知識と力技だけで邁進してきた自分には「愛」だけが別格のままです。

名称はあるのに見えない触れない欲しくても簡単に得られない。

自分が「愛」と呼んでいるものが他人のそれと同じ類のものである自信はないのですが

愛らしき何かに触れてから、自分が愛から遠い場所にずっといたことをはっきり認識できるようになりました。

 

私を虐待してきた姉達は私を愛しているから鞭で叩いてきた。

愛ゆえの虐待だと信じ続けてきたことに「NO!」と言うだけでなく

「これは愛だったかもしれないが、この部分は明らかに愛じゃない」という細分化判別が少しできる程度まで

心が穏やかになりました。

感情的にならず、もっとも心を波立たせていた頃の記憶を今、分解していっています。

納得できず混乱していただけの記憶という荷物を「ゴミ」と「大切なもの」に仕分けしていってます。

おかげで日々ちょっとずつ体のこわばりが取れて、万年出ていた変な汗がほぼ出なくなりました。

 

前回の記事で書いたのですが、愛は心の混乱を取り除くのに大きな判断材料となります。

愛が何かは本当に…わからない。

語ってはいけないものだと思ってます。

でもその愛とは「温かく」「矛盾がなく」「安心感」を他者に与えます。

 

鬱病になると(個人的見解ですが)

だって、でも、やっぱりという否定語が極端に多くなると感じています。

頭で考えることと心が考えること、プラス腹で考えることが一致していないと否定語が必ず発生すると私は考えています。

心は温かくて安心感があり矛盾がない状況を好みます。

頭と心が喧嘩をし続けるとパワーを使うし、動けなくなる。ある程度の達成感を得続けていないと人間は自信を失っていく。

自信もない、パワーもない、寒い、矛盾だらけ、納得いかない、腑に落ちない、安心できない。

それらが無気力期(欝)なんだと思います。

 

特に「腑に落ちない」という言葉は字のごとく。

腹の方まで落ちていってくれないという意味ですよね…。つまり腹が拒絶してるんです。

頭のほうは「こうするべき」と結論をだし心と腹に伝達しようとするけれど、腹の底が嫌がっている。

冷たいものを食べると腹こわします(物理的にも)

つまり、温かくないから腹が拒絶するんです。

 

あ、今このブログを書きながら気がつきました。

 

腹は温かいものを好む→愛しか受け入れない場所だとしたら、腹にいる赤ちゃんが愛おしくてたまらないのは当然ですね。

だって愛の中で純粋培養されたんですから。

逆にいえば愛の無いところに赤ちゃんは宿れない。

自然現象として愛は愛の中から生まれてくる、、、ということでしょうか。

だからといって将来的に試験管ベイビーが誕生したとして、その子供に愛がないとは言いません。

でも魂は定着しにくいかと思いました。

 

別の次元になりますが、憑依霊というものが存在するらしいです。

霊や妖怪という目に見えない存在がいれば、の話ですが…

入れる器があれば、またその器を大切にしてくれる存在がいれば、霊や妖怪は温かいものを求めて器に入りたがると思います。

お地蔵様や仏像もそのひとつだと思います。

最初は単なる岩なのに、加工され拝まれるようになると神聖さが出ます。

試験管人間が出来上がる日がくるとして、もしそこに意思が宿るとしたら、それは憑依であり、赤ちゃんのそれとは違う何かであるだろうと思えてなりません。

まぁ…それはまだ先の未来でしか確認できないことですが…、ホムンクルスそのものが悪いのではなく、大多数の人が正しい知識を持って対応できるかが問題点となってくるかと思います。

 

話が脱線してすみません。

最後に話をまとめると…

「あなたは何を考えているの?」と聞かれるのがすきなのは、こういう内容を語り合える仲間が欲しいからでした。

料理を作っている時もテレビを見ているときも、電車でボーっとしているときも、私の脳内はこのブログのようなことばかり考え続けてます。

また眠れない今日みたいな夜には、現在の彼氏とはこういう話を延々します。

私の話が止まらないことが多くて彼が先に寝てしまうことが殆どです。

でもこんな話しでも彼は興味深くまじめに受け取りまじめに返事を返し、熱く語り合ってくれます。

それだけが私たちにとっての愛ではありませんが…、でも6年の交際でこのブログのような会話を延々しあえる存在は私にとって失えない大切な存在となりました。

最高のカウンセラーです。

皆さんにも自分だけのカウンセラーが見つかることを祈っています。

 

 ここまで読んでくださりありがとうございました。

 

おはようございます。

メンタル系の本を読んでいる方が一番気にしているのは「治療法」だと思います。

ですがネットも本もそうですが、病気の原因や症状については詳しく解説しているのに

具体的な「治療方法」となると、とたんに表現があいまいになったり具体性に欠けたりしていると思います。

 

先に理由を述べると…

本やネットは他人の情報を交差しあい印税やアクセス数を稼ぐため「ネタ帳」なだけだからです。

すべてが「答えに結びつかないサイトばかり」とは言いません。

本当に苦しい実体験を乗り越えゴールにたどり着いた記事を書いている方もいます。

けれど一般人がネットに情報を流したところで検索ツールやサイト複製の技術に長けている人々の中では糸くずみたいなものです。

癌を治す系のサイトでもよくあるのと同じです。

「記事を読みすすめると結局外部リンクへのアドレスに繋がっている」という罠。

 

私のこの記事も糸くずのようにネットに埋もれていることかと思います。

ましてや文章も下手で読み物としても面白くないとくれば、検索でヒットされることも少ないかと思います。

例外として…、欝病という名前が一般化された途端に目立たなかった欝病患者のブログのアクセス数が伸びて同じ病気で苦しんでいる人の助けとなる「ブーム現象」もあるかとは思いますが…。

 

内容を本題に戻すと、アダルトチルドレン(AD)や境界性人格障害(ボーダー)を治すのは簡単なことではないです。

私が今まで読んできた記事や本には原因や脳内で起きている現象を細かく解説してくれていましたが

いざ治療のページになると「薬物療法」とか「行動療法」と書かれていておしまいなことが多かったです。

 

しかし薬物療法といっても、薬を扱うのは医者であり、医者の診断はバラつきがひどいです。

私はメンタル系の病院に通っていた経歴が長いのですが、8件ほど病院を(黙って)変えて同じ病名と同じ薬を処方されたことがありません。

「行動療法」に関しても病気によって内容が変わるので、例えば自分に自信をつけるための行動療法を試したとしても「自己愛性人格障害」の人にはピンとこない治療となります。

 

メンタルの病気を持っている人に「これ!」という治療方法はありませんが

しかし「共通して絶対に必要なもの」があるのは確かです。

それを見つけるためには内観(自分を知ること)をしつつ人との出会いを繰り返すことだと私は思います。

出会いは人を変え、お互いの人生をも変化させます。

 

メンタルを病む人は基本的に親子関係や家庭環境にゆがみがあることが多いです。

決め付けや悪者扱いをしたいわけではありませんが、メンタル患者を生み出すのは歪んだ環境です。

※あくまで本人にとって苦しい環境であり他者からは正常な環境となりえることもあります

正常な感覚を持った保護者が傍にいる場合、普通は「本人より早く気づく」んです。

気づける人は「正常な人」なんです。

※正常とはここでは生活に支障がないレベルのメンタルの持ち主であり、かつ歪みのない愛情を吸収&放出ができる人のこと

正常じゃない人や家族を「毒親」などとも呼びますが、私は彼らも被害者であり一方的に責めていいものではないと思っています。

また会社やバイト先で運悪くメンタルを悪くした人の場合、一時的に精神状態が悪くなったとしても、本人の周りに正常な人が多数いれば悪化するのみで終わるということは無いでしょう。

※本人に堕落欲求があれば別です

 

結論から述べると、ある程度のメンタル的な病気は「正常な人から正常な愛を受け取ること」で回復します。

ピンとこない人は多いかもしれませんが、経験した人はピンとくる内容です。

そもそも治らないままの人や治ったら治った経緯を語らずに社会へ飛び立っていってしまう人ばかりなので、確実な資料が貯まるはずもないです。

現に私自身も今は「治りかけの段階」なのでブログを書いていますが、治りきったら煙のように消えてしまうと思います。

結局なにが切欠で病気が治ったのか書き残さないでしょう。

 

しかし現段階ではっきりいえるのは「正常な愛をくれる人と出会うための行動こそが最高の治療であり行動療法」です。

薬物治療ももちろん必要な人には必要です。

1番大切なのは「正常な愛」ですが2番目は「バランス」なので、あまりに心のバランスが悪く自力で修正できない場合は薬で軌道修正しておくしかありません。

薬をやめてしまえば元に戻るんでしょ?と不安になる人もいると思いますが、心に蓄積した愛は消えたりしません。

 

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薬だけでは治らないけれど、薬が効いている間になすべきことをなす。

そして自分を客観的に、かつ内面からも見つめてバランスの悪い部分を認識する。

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2018年3月の時点で私が導き出した治療法は以上です。

参考になれば幸いです。

 

 

 

あけましておめでとうございます。

今回は子供のまま大人になった「アダルトチルドレン」について書きたいと思います。

 

私に専門知識はありませんが、普通以上、医者未満、の知識レベルで

今まで考察を繰り返してきました。

境界性人格障害や鬱病、パニック障害、対人恐怖症など

これらの病名の「根源」であろう「愛情飢餓状態」を私は「アダルトチルドレン」だと位置づけています。

 

皆さんは愛情、足りてますか?

 

心の底から安心できる場所、人は、いますか?

 

意味もなく不安に襲われたりしませんか?

 

 

・通常であればどんな人も母親から無償の愛をそそがれ現代社会へと旅立つパワーの糧とします。

でも愛には色々な種類があり、本当の愛を理解し他人に注げる人はごく少数かと思います。

私は頭でっかちなので「本当の愛じゃないとこの心は満たされない」と思いこんでました。

でもそれは違ったようです。

 

現在交際中の彼のお蔭で、病状がとてもよくなった、薬もよく効いてきた、と前の記事で書いたのですが

彼が私にくれたものは「正常な愛ではない」です。

正しい愛がなにかは未熟な私にはわかりかねますが、正常じゃない愛ということはハッキリわかっていました。

どんな愛かというと「依存と執着」です。

私も彼に依存し執着しているので「共依存」とも呼べます。

一般的に共依存とは良くない状態だと判断されがちですが、しかし

アダルトチルドレンのケースで考察すると、1歳~5歳ぐらいまでの幼児期には母親と子供は共依存状態にあるはずです。

・姿が見えないだけで不安になる。

・くっついていると安心する。

まさに共依存とほぼ同じ状態です。

共依存とは成人した問題のない大人には有害ですが正しく育たなかったアダルトチルドレンの患者には必要な要素なんです。

個人差はありますが足りない愛情が共依存によって満たされ、本来の子供が成長するのと同じような経緯をたどり

アダルトチルドレンから脱出することが可能です。

 

・本来の子供が成長する過程

母親との癒着と依存

自立心の芽生え(パワーが充電された状態)

不安との戦い(何度も後ろを振り返り母親の存在を確認する時期)

確信(自分には安全な場所があることへの安心と信頼)

自立

 

このような過程を経て社会(学校)へと子供は進んでいきます。

 

・私の治療過程での苦悩について

私は心療内科で薬を貰うのみの治療が中心でカウンセリングは受けられませんでした(満員で)

なので気持ちが不安定になったり寂しくなったときはニコニコ生放送などで気を紛らわせているタイプでした。

恋人とうまくいっていない時も「相談枠」で何度も悩みを吐き出していましたが

毎回のように「別れた方がいい」「依存しすぎ」「いい関係ではない」という私が望まない回答ばかりが帰ってくる状態で

途方に暮れる時期がとても長く続きました。

今思うと不安になる要素を他人から植え付けられていた状態でした。

 

・他人に相談しなくなった

私の状態が劇的によくなったきっかけとして、他人に自分の人生(恋愛)の相談をほぼしないようにしたことが第一にあります。

自分の感覚だけを頼りに歩きました。

すると驚くことに、時間とともに心が静かになり、感覚も鮮明になっていくのです。

他者からの情報をシャットアウトし外出を控え、恋人とだけの濃密な時間をすごし

喧嘩した場合でも「どんなに不安でも自分で答えを出す」という行為を繰り返した結果

17年間心からずっと噴出していた不安というガスが小さくなっていったのです。

 

あくまで、信頼のおけるパートナーが相手でなければこういう結果にはならないと思いますが

自分が今までやってこなかったことをやるというのは、新しい発見だらけで本当に感動します。

 

例え彼と私の愛情が共依存という歪んだ愛情でつながっていたとしても

お互いを尊重し信頼できるレベルまでいくと「愛情飢餓」が「仮の愛」によって満たされていきます。

1年ほど前であれば、私は彼の姿が見えないだけで不安いっぱいに泣きそうになってました。

でも今では「帰ってくるくるから大丈夫」という確信に支えられ、数日会えない期間ができても我慢できるようになりました。

むしろ一人の時間をどう楽しむか、に興味がわくレベルにまで孤独を怖がらなくなりました。

 

・相談は自分を不安にさせない相手にするべき

これが一番です。

誰にも、一生相談しないというのはキツいです。

どうしても他人の意見がほしい!という時は「自分を不安にさせるような発言をする相手は避けるべき」です。

不安にさせている時点で相手はあなたのことを大事にしてはいません。

心が弱い人間だということも理解していません。

悩みの答えとは常に自分の心の中にあります。絶対にあります。

ですから自分の意見を惑わすような発言をする人や、不安で感覚が鈍ってしまうような環境での相談はしないことを

私はおすすめします。

どんなに焦っていても、相談する相手は慎重に…選んでください。

 

 

・心が静かになると物事が客観的に見れるようになる

安心できる場所で雑音をシャットアウトすると心は静かになり、混乱していた過去の記憶や

自分のおかれている状況を客観的に考察できるようになってきます。

少なくとも私はそうでした。

その穏やかな状態の時に「自分という人間がどうしたらストレスに負けないか」という作戦を練ることが大事です。

そのためには、自分がどんな人間か知ること、どんなストレスに弱いか知ること、考え方の癖を知ること、です。

自分らしさというのは変える必要はないです。

根本的にも人間の資質は変われないです。

でも特徴を知ることで感情やストレスのコントロールが可能になります。

頭(脳)と心は別ですから、情報として入ってきたストレスが心をむしばむ前に「対処することができれば」

あなたはあなたのままで生きていくことに何も問題ないんです。

あなたのままでいていいんです。

 

・LINEが既読になっているのに返事がこない場合

既読なのに返事がこないのは私と会話したくないから…?

私は嫌われているの…?

返事を返す価値もない相手だと思われてる…?

など、昔の私ならばこのような自虐的思考を延々しつづけ、自分を痛めつけるだけ痛めつけ

他人に八つ当たりの結果、離縁される、というパターンでした。

今は劇的に違うかというと、自虐的妄想に+aが加わっただけです。

それでも自分の行動や精神面は劇的に変化しました。

+aとは…

ケースによってバラバラですが、基本的には「この人LINE相手に嫌われても彼氏さえいればいいや!」です。

「彼氏さえいれば」というのは最初の一歩、切っ掛けでした。

端的にみると彼氏しか頼れるものがない命綱一本の状態です。

危ないです。周りの人が知ったら「その考え方はやめろ!」って言われるでしょうね。

でもいいのです。

これは切っ掛けにすぎません。

 

彼氏がいるからいい、と「既読スルーされている項目に終止符をうつ行為」

それが大事です。

いつまでも不安をあおられるようなことを考え続けないで済むという効果が産まれます。

一般的健常者でもある程度の「良くない事件」に対して「まぁいっか」という魔法の言葉で切り抜けるものです。

ストレスコントロールのコツが掴めるまで、どんな方法でも試していいと私は考えます。

人の数だけ個性があるなら、人の数だけ解決法があっていいと思います。

 

・信頼できるパートナーがいない場合

誰にでもパートナーがいるわけじゃありません。

私は運がよかっただけのケースです。

もし信頼できるパートナーがいない場合、+aに何が入るかというと

自虐的な事を考えた回数と釣り合う分だけの楽しい事を考えること。

それを自分への課題とするべきだと考えます。

どんなにマイナスなことを考えてもいい。妄想してもいい。自分を傷つけてもいい。

ただし、

それと釣り合うだけの楽しいことをしなさい。考えなさい。妄想しなさい。

私は本当に専門家でもなく心理学などの資格なども有していません。

でも少なくとも「私がしっくりくるなと思った解決法は他の人にも当てはまる場合があるはず」と考えています。

100人に1人でもいい。

私が導き出した解決法が少しでも役に立てたなら、それでいいです。

逆に「もっといい方法がある」なども意見も、どんどん欲しいくらいです。

 

 

 

話はそれますが…

この日本で心を治療できる名医はいません。

心療内科というところは心身症(心が原因で肉体に症状がでる)を軽減させるための薬を処方するためだけの場所です。

医者によっては患者の話を親身になって聞いているケースもありますが、通院回数を重ねるうちに気づくはずです。

自分の苦労をいたわってくれる人はこの人だけだ!という感動が徐々に薄れていくことを…。

医者は診察した患者の話を「記憶しようとはしません」

記憶してしまえば己の身が滅んでしまうからです。

医者とは「親身になってはいけない職業」なんです。

医者にも養うべき家族がいます。医者とは商売の一つです。

己の身が滅ぶような愚かな行為は「頭の良い医者ほどしない」です。

 

次にカウンセリングですが…

いざ受けてみると「想像と違う…」と感じる方が多いと思います。

意外とカウンセラーは「何もしません」

患者が話したがる内容を「うんうん」と聞き「それで?」と促し

患者自身が自分の声を自分の耳で聞き、心を言葉という形あるものに変換し吐き出させ、客観的に自分を認知し

最終的に「解決法を自分で気づけるよう促し見守るのがカウンセラー」です。

患者を直接的に助けるわけではありません。

催眠術をかけて「あなたの心の傷を今から塞ぎます」というような魔術者でもありません。

信頼できるパートナーがいない人のための「仮のパートナー役」が「カウンセラー」です。

だからといって私のパートナーのように愛情までは患者には注ぎません。

「自分を客観的にみられるようになるまでのお手伝い」しかしません。

 

心を病んでいる人はたくさんいます。

どのカウンセリング施設も満員です。

「満員になるほど効果があるんだろうな」なんて期待しがちですが、やっていることはどこも大差ありません。

他力本願な人がカウンセリングの扉を叩いても期待外れで終わるだけです。

カウンセリングの存在理由をしっかり理解し「治る」ということが何を指すのか

どうなることが「治る」につながっているのか、分かっている人ほどカウンセリングの効果は発揮されると思います。

なぜカウンセリングが保険適用でないのか…。

「ほとんどの人に効果が無い」からです。

「救済効果は見込めない」とみなされたからです。

 

心の病気がカウンセリングで劇的に治っていくのであれば

国にとっても経済的に有為なのでカウンセリングという治療を進んで保険適用にするかと思います。

しないのは「しないなりの理由がある」からです。

いつも予約で満員だからといって=効果がある、というわけじゃないので

大きな期待をしないで欲しいと私は思います。

期待がおおきすぎるがゆえに、絶望をかかえ最悪なパターンになってしまうと考えるからです。

 

 

でもあなたの心の傷を治せる人は必ずいます。

それは「あなた」です。

あなたのことを一番知っているのはあなたです。

あなたが諦めない限り、必ずゴールに近づきます。

一緒に頑張りましょう(でも疲れたらちゃんと休んでくださいね)

 

 

以上です。

ここまで読んでくれてありがとうございます。

上から目線になってしまう部分も多々あるかと思いますが、日々精進し傲慢や怠惰に溺れないよう気を付けたいと思います。

 

私の人生がおかしくなりはじめた最初の原因はIBS(過敏性腸症候群)でした。

 

最初は中学校での「オナラ」に始まり、徐々に「オナラ+下痢」に変化し

今まで何とも思わなかった教室という場所や

音のない静寂に恐怖心を抱くようになっていきました。

 

意識すればするほど腹痛と便意が襲ってくるので

意識しないことを頑張っていましたが、頑張るほどに意識は強まっていく一方でした。

 

結果的には、各駅電車すら乗れなくなり高速道路もダメ

友達とキャンプやプールへ行くことすらも楽しさより

不安と恐怖が勝っていき何をしても楽しくなくなりました。

 

一人が大嫌いな私が一人が一番楽に感じる病気になったのです。

外出が大好きなのに部屋に閉じこもっているのが一番安心するのです。

当時は絶望と悲しみの毎日でした。

 

今では知名度が高くなったIBSですが…悪いことだけじゃないと

後々になって気が付きました。

 

それは「先読み」と「感情のバリエーション」の能力が高まることです。

先読みは例えば「この電車に乗って1分たたずに便意に襲われたらどう対処すべきか」

「外出先で便意に襲われてもすぐトイレにいけるよう地図を暗記しよう」

など、この先こうなったらああしてこう解決しよう。

でも最悪こうなったらどうしよう。よしこうしよう。

と…先々でのトラブルに対処できるよう前もって「予測」する癖

それを私は「先読み能力」と勝手に名づけています。

 

脅迫的とも言える不安が消えるまで「頭の中だけで考えて解決策を見つける作業」なので、イメージ能力もぐんと高まります。

なにせ必死なので記憶力も観察力も集中力もとても高まります。

なのでIBSという病気になる前の私のIQと

闘病中のIQは遥かに差が出ている実感が持てました。

 

感情のバリエーションについてはいわずもがな。

辛い体験をした人ほど他人に優しくなれる、というだけのものなのですが、喜怒哀楽だけでなく、辞書にしか書いてないような微細な感情の違いにとても敏感になれた実感があります。

 

現在30代なかばの私は老化現象とてもいうのでしょうか

恋人の前でオナラを何発こいても気にならないノホホンとしたアホになってしまいましたが、それでもIQは部分的に高い数値が出ます。

 

日々、ハンドメイドでの作品作りをしていますが、ありがたいことに売れ行きも上場。

色々な趣味に手を染めていますが、赤字になっているものが無い状態にあります。家計簿はつけていません。

 

しかし嬉しいことばかりではないです。

IBSが切っ掛けで強迫神経症、不安障害、広場恐怖、閉所恐怖、対人恐怖、慢性腹痛、ホルモン分泌の低下、体力低下、パニック障害、免疫力の低下などなど、数えきれないほどの心の病が「芋づる式に増えていく病気」なので、ガチの臆病癖がつきました。

逃げ癖もつきました。

尋常じゃない憎しみや悲しみが腹の底でとぐろを巻いてます。

恋人の前では屁がこけても、他人や友人の前ではこけないので集団行動が未だに苦手です。

バス旅行とかに誘われた日には瞬時に「参加しないから!」と言う始末です。

 

はっきり言って病気になると「やっぱり辛い」です。

うん、辛い方が圧倒的に大きい。

 

…それでも!!

 

この病気のお蔭で大切な何かを得ることができた。と胸を張って生きていきましょう。と言いたいのです。

たとえ癌になっても。

余命先刻されても。

腕を切断することになったとしても。

 

そうなったことで得られる何かが、必ずある。

そう信じたいです。

憎しみを叫ぶ怨霊になるのではなく、この先、似たような辛い体験をするかもしれない人達の「光」となれる存在で、いたいですね。

 

この気持ちを忘れず持ち続けることが、

私にとっての矜持です。

 

以上。

ここまで読んでくださってありがとうございます。

いつも誤字が多くてすみません。

こんにちは。

 

先日、実家へ帰り姉と久々に会いました。

12月が姉の誕生日だったので渡しそびれていたプレゼントを渡したところ、姉に微妙な反応をされました。

渡したものは「くまのプーさんの置物」

・雨の日に岩にはまって抜けられないプーさんを黄色い服の少年が傘を差出し「大丈夫?」と声をかけているような手のひらサイズのフィギュアでした。

微妙な顔をする姉に「もしかしてアリエルとかの方がよかった?」と聞いてみたら「アリエルがいい!あるの!?そっちを頂戴よ!!」と即答。

 

いや…聞いてみただけでアリエルはないけど…

 

挙句に実家の父に見せようとアパートから持ってきたドール人形を見つけた姉が人形をわじ掴み「こっちでいいよ!かわいいじゃんこれ頂戴よ!」と…

 

いや…それ私が大切にしているドールだからあげないし…

変な掴み方してるから関節がクタクタになってるやんけ…

 

結局姉は「じゃあここでいっか」と車のダッシュボードにプーさんを置いてくれましたが…

誕生日プレゼント、皆さんは家族から貰った時に希望の品じゃない場合、どう反応していますか?

私はたとえ家族であろうが欲しくない物であろうが喜ぶ演技はします。

文句は一切いわずとにかくプレゼントの特徴をアレコレ探して褒めます。

私が過剰なのかもしれませんが、今回の姉の反応に(ノー”ー)ノ怒

 

 

そして実家にいる時のこと。

姉が一人暮らしの父にめっちゃ叫んでいました。

「枯れた花はちゃんとついばんで捨ててって言ってるでしょ!?」

「給湯ポットにお湯を入れすぎ!蒸気で天井から水が垂れてる!!」

「あー!なんでヤキソバを食べてるの!?冷蔵庫に白米が残ってるのに!」

「私の腹は今うどんモードなの!パパうどん3玉買ってきて!」

などなど…

 

姉のヒステリックは相変わらずなのですが久々に直面すると(;’д’)ぽかーんです。

一年前のお父さんは姉のヒスに堪り兼ねると怒鳴り返す人でしたが、今回は「はいはい」と全てを受け入れていたので「お、お父さん…大丈夫?」と私はつい聞いてしまいました。

父は「もう慣れたよ…いつものことさ」と小さく笑っていました。

高齢に差し掛かる父ですら対応能力があるのに…姉はこのままいくとヒステリックばばあに固定されてしまうのではないか、と心配になり私から切り出しました。

 

「男は誉めて伸ばしてあげたほうがいいんじゃない?前はポットにお湯すら入れ忘れていた父なんだから、お湯が入っていただけでも進歩してると思うよ」

しかし姉は「だって天井がびしゃびしゃなんだもん!」と怒ったまま。

 

そして二人で料理をしながらぽつぽつと姉と私は会話をしたのですが、私が「自分目線の意見ばかりじゃなく相手の状態を探ったり聞いたりもしていったら?私が不登校の時も私の事情をねーちゃんは理解しようとせず自分の意見を押し付けてきたでしょ?」

と喋った途端、姉が私の言葉をさえぎり「昔のこと何度も何度もしつこいなー!」

「そのことは何回も謝ったでしょ!?いいかげんにしないと私だって腹立つわー!」

「あんた何百回その昔の話を出すわけ!?」

 

…あんたが誤ってくれたのは私の記憶では1回なんだけど…(;’д’)

…百という単位がつくほど私は昔の話の話題を出してないぞ…(;’д’)

 

この姉との会話にて私の腹の中のどす黒いものがゆらめきました。

被害者である私としては姉に100回土下座して謝ってもらったとしても許したくない出来事であって、謝った事実があったからといって話を軽く蒸し返されただけで加害者が逆切れしているようじゃ、心の底から謝ってねーなこいつ…としか思われないでしょう。

 

虐待などの加害者は所詮、本当の反省などしないのである。

 

姉が頻繁に出入りする実家から、私は距離を置いて正解だと再確認できました。

心の傷、トラウマというのは他人からしたら包帯を巻いてる姿、もしくは「かさぶた」みたいにみえるのかもしれませんが、本人にしてみたら包帯の下は傷口が当時のままかもしれないし、かさぶたの内側が痒くて痒くて発狂しそうな状態かもしれないわけです。

「当時のトラウマ」を克服するために通院中の人間に向かって…

何度もその話出されると腹立つって…どうゆうことやねん…(* ̄ー ̄)怒怒怒

 

今回の私は発狂することはありませんでしたが、冷静になるまでやや時間がかかりました。

前回の実家では「怒」が一つ発生しただけで姉に掴み掛かっていましたから成長したものです。いや薬のおかげかな?

なんにしろトラウマに関わる人物たちを客観的に見つめて、冷静でいられる時間が増えていくほど病状がよい方向へいってる気がします。

 

以上、先日の報告でした。

最後まで読んで下さりありがとうございます。

今、通院中の病院からペーパーテストを預かっています。

どの病気をチェックするものだったかはっきり覚えていませんが

テストの内容はとてもシンプルなもので

イラストと人間二人の会話の吹き出しが描いてあるものです。

一人の人間は駅員であったりホテルマンだったりします。

もう片方はお客である自分となります。

 

ホテルマン「今日は雨が降っているのでこちらのコートをお貸ししたいのですが、ご主人様が不在のため勝手にコートを貸し出すわけにはいきません」

自分「  」

 

さぁ、自分は何と答えるでしょうか?

そういうテストです。

 

私はこのテストでなかなか空欄が埋められません。

色々言葉が浮かんできてしまい、一つに絞れないです。

ホテルマンに「貸せないなら最初から貸す素振りをするなよw」

と突っ込みたい自分と

「わざわざお気遣いありがとうございます。その気持ちだけで十分ですよ」

と八方美人な自分と

「コートぐらいいいじゃないか。君のご主人様はそんなにケチな人なのかい?」

と挑発的になる自分と

色々浮かんできてしまい、

結局「じゃあ自分の頭に最初に浮かんだのはどれだろう?」

と目を細めてみても

やっぱり「ん~…同時に浮かび上がってきてこれ!という答えが絞れない」

そんな状態です。

 

保険適用で受けられるテストなので

自分がアダルトチルドレンか、どんな性格か

自分を掘り下げて知りたい方は主治医に頼んでみてください。

「アダルトチルドレンに関するペーパーテストを受けたい」

と伝えれば大丈夫だと思います。

 

こんにちは。

久々にピグブロを見直しました。

誤字の多さにビックリしました。でも直しません。

過去の自分がどんな状態だったのか把握するための大切な材料だと思うから

そのままの状態にさせて頂きます。

 

今回は「ボーダーを治す方法1」というダイナミックなテーマを綴りたいと思います。

ただし、私は医者でもなく患者本人ですので、あくまで私自信が感じたままの

心が楽になった切っ掛けはこれ(かも)というお話をします。

 

★→ボーダー絶頂期だった頃の私の状態

☆→現在の私の心理状態

 

まずは上のテーマから。

★彼氏と3日に一度はケンカしてリストカット

★悪夢がほぼ毎日

★一人ぼっちが怖くて堪らないため常に誰かとチャット

★誰かと喧嘩をすると怒りが長時間おさまらない

★常に過去の辛い出来事を頭の中で反芻

★テンポが人より早い

★話題がコロコロ変わり前後の脈略がない

★テンションの上下が激しく間隔が数分おき

 

☆彼氏とのケンカが一か月に一回以下。ケンカしたとしても大事にならない

☆悪夢をほぼ見ない

☆一人の時間がかなり平気になった(堪えられて3日)

☆自分からラインを飛ばさなくなった&既読が付かなくても気にならない

☆誰かと喧嘩した場合、彼氏さへいればいいや、の呪文で感情が鎮火

☆テンポが「タタタタタ!」から「タッタッタッ!」ぐらい緩やかに変化

☆自分の話題が前後と噛み合ってないことに気が付けるようになった

☆テンションの上下が穏やかかつ暴走を自分で予期できる

 

ざっとあげられるのは以上です。

なお変化のなかった部分&悪化した箇所はこちら。

◆便通、生理、足や肩の状態は普通

◆彼氏への依存度アップ

◆睡眠過多(約12時間)

◆生活サイクルの乱れ(基本夜型)

◆不眠時の過食

◆一人の時間が減ると短気になってくる

 

 

----------------------------------------

あくまでこれらは私個人の症状です。

なお過去の日記から引っ越しと転院を記載しわすれたので追加します。

 

・2年前(冬)に実家近くのアパートへ引っ越し

・彼氏49歳(アルバイト) 私33歳(無職) 共に独身 家が近い

・近隣の駅にある心療内科へ転院し障害者手帳2級交付

・主治医 女性 歳が近く会話が弾み診察時間が長いためお気に入り

・服用している精神系の薬→5種類+超低用量ピル+お守りの睡眠薬+緊急頓服

 

現在の病名

【境界性人格障害(ボーダーライン)】

【双極性Ⅲ型(躁鬱)】

【発達障害(多動)】

----------------------------------------

 

前書きが長くなってしまい申し訳ないです。

では本題の「ボーダーを治す方法その1」

 

ダイエット法と似てしまいますがズバリ

「 ストレスに関することを紙に書きだす 」です。

できるだけ何回も書いてください。

何日も書いてください。

 

なお、その書き出した項目に【ストレスがおこりうる場所】を追加してください。

もし場所の項目に「自宅」が多ければ「自宅」から逃げてください。

離れてください。

「職場」ならば場所を変えるか無職になってください。

貯金がある方や、実家に逃げられる方は逃げてください。

貯金を使うしかない場合は使い果たす直前で生活保護を申請してください。

ありのまま全てを保護科に話し、受理されなければ別の地域の区役所で事情を説明してください。受理されるまで区役所を回ってください。

あなたは絶対に死にません。

そして絶対に助かります。

あなたが本当に病気で苦しみ、生活に支障が出ているのであれば保護が受からないはずないのです。

また実家に逃げた場合、実家の居心地が「ストレス」の項目に何個も該当するのであれば実家に居続けるのも良くありません。

 

病気になった原因があなたであるか周りの原因であるか

犯人捜しをする必要はありません。

 

病人は思考能力を「ストレス」に圧迫されていて

自力で物を考え抜く能力が低くなっています。

そして 究極の自己縛り と 怯え の板挟みのはずです。

自己縛りとは「周りの視線や風評」であり「抜け出せない固定された思考」です。

怯えは「現状を維持できなくなる未来への恐れ」と「見捨てられる恐怖」です。

 

私も怖かったです…。

なぜチヤホヤされて育った勝ち組の私が国に泣きつかなければいけないのか。

怒りと戸惑いと羞恥心、そして「どうせ受理されない」という固定観念がありました。

いい歳の30女が彼氏の後ろに隠れて泣きながら区役所へいき

情けない過去や通院歴を語らなければいけないのか。

なんでこんな状況になってしまったんだ…

彼氏はなぜ私とさっさと結婚して養ってくれないんだ…

私は悪くないのに…

などなど

ボーダーの悪い癖が出まくりながらも必死で受理してくれる瞬間を待ちました。

 

生活保護だなんてとんでもない!

と思う人、このページを見て無理無理と首を振る人がいるかもしれませんが

やれない人はやれないままでいいのです。

やらない理由があるからです。

行動にうつる人は「本当に苦しい」からプライドを捨ててでもやれるのです。

 

また国は生活できない人を見殺しにしてはいけないという法律があります。

詳しくはググってください。

 

ザックリと書いてしまいましたが、まずは「ストレスが生み出される場所」を客観的に見つけ出す作業です。それが紙にストレスと場所を書きまくるということになります。

スマホのメモ帳でもかまいません。

統計機能のあるアプリならなおさらストレス元を絞り込めるでしょう。

 

あなたの心のバケツがいつも溢れていて重い想いをしているならば「溢れなくさせる」作業「しか」最初にやることはありません。

 

環境が長期間変わっていない方の場合は勇気がいるかと思いますが、共にがんばりましょう。

「ボーダー治療シリーズ」は不定期にてアップしていきます。

 

最後まで読んでくださりありがとうございます。

自分のことは自分が一番見えない。

 

許せない、

許せなかった。

 

どうして私に酷い事をした家族を許せないのか

どれだけ考えても分からなくて

愛してるのに

この愛が本物なのかわからなくて

憎んでるのに

許したくて!

 

昔に戻りたいとずっとずっと願っていた。

逃げる事だけいつも頭から離れなかった。

 

立ち向かう振りをして周りに頑張ってるふりをjみせて

でも実際は私は病院にいくほどの心の弱い人間だから

どうか殴らないでくださいと媚びを売る行為をしているだけだった。

それを自分が知っているのに知らないふりをして

弱い自分を他人に話せる自分はすごい存在なんだと

見栄をはっていることすらきづかず、他人の傷口には余計に鈍感になっていった。

 

私は今の彼と出会うまで目に何枚ものウロコがついて何も見えていなかった。

今見えているとは言わない。

けど昔はもっともっと見えていなっかったことに気づくことぐらいの

やっと小さな一歩が踏み出せた。

 

私は弱虫だった。

心を開くふりをして弱みをさらして、私からは攻撃しませんもう傷だらけなんですと

両手をあげながら背中にナイフをかくしていた。

 

許すってなに?

愛すってなに?

酷いってなに?

 

一番酷いのは私じゃないか

腹黒いのは私じゃないか

 

彼との穏やかな時間の中で、悪夢もみなくなって

無意識の謎の焦りも消えて、未来も考えなくなった。

ただ「今」を生きる物体になって、バケツの底に沈んでみえなかった泥が

少しずつ見えてきた。

 

私の泥、それは「天狗」だった。

 

子供の頃にたらふく愛されて、愛されすぎて、鼻が伸びたまま大人になった天狗

許してほしい?そうずっと考えてた。

愛して欲しい。そうずっと願ってきた。

でも泥を掘ればまったく違う!

 

私のような素晴らしい人間によくも恥をかかせたな!

怨み!屈辱!殺意!

許してなんかやるもんか!

私が味わった何倍もの苦しみをお前らが味わって

私の足にすがりついて「許してください」と泣きわめくまで

許すもんか!

怒!怒!怒!

 

バケツの水が減った底の泥の中身は

こんなのばかりだ!!

 

 

 

 

自分の過去の話をありとあらゆる人に話してきた。

何度も何度も。

知ってほしくて話すわけじゃなく、自分の不幸に酔いたいから話していた。

相手は誰でもよかった。

 

同じ話を繰り返すと言葉の意味が自分でわからなくなり

ただの録音テープのようになる。

だから少しずつアレンジしていっていた。

彼はその私に気が付いた。

私の泥にも、気が付いた。

昔の私なら焦って逃げていた。私のことを誰もしらない場所へ逃げて

また不幸劇のヒロインごっこをしていた。

 

でも、失うものの何もない今の私には、逃げる必要も隠す心もなくなっていた。

穏やかな心で、ただ、ただ…

昔の自分を客観的に、まるで空から自分を見下ろすように

振り返って見つめなおす余裕ができた。

そして、彼がヒントをくれた泥に私も気づけた。

 

自分のことは自分が一番わからない。

産まれた時から鏡がなかったら、自分の瞳の色が分からないように

自分の見ていた世界にフィルターがかかっていることさえも

それそのものが「常識」の「あたりまえ」なんだと、思うしかないんだと

気が付いて…

 

あまりの過去の自分の醜さ、今の自分の心の醜さに吐き気をもよおした。

 

私は天狗のまま大人になった。

チヤホヤされることの快感が「当たり前」のフィルターになって

自分の不幸話をすることで甘やかされるぬるま湯につかっていたんだ。

 

女であること。非力であること。お金がないこと。心が弱いこと。

薬を飲んでいること。国の保護を得ている障害者であること。

 

何でも利用して、注目と甘い汁のためにプライドも捨てて

でも実際はめちゃくちゃ自衛心が高くて、否定されると怒り狂って

競争心旺盛で、完璧主義だった。

盾を捨てる代わりに敵をぎたぎたに裂くための剣を大量に抱えていた。

 

いつでも猪突猛進だった… 槍をもって ただまっすぐに ぶっさす為に

走って走って走る意味も方向も見失って、でも止まる恐怖におびえて

走ることをやめられないイノシシのようだった。

 

 

でも、もう自分を否定はしない。

 

こんな私、嫌い。

こんなの私じゃない!

 

そんな「否定」をやめない限り、走ることも止められないだろう。

私はありのままの私を受け入れる。

 

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私は偉い。

私は天才。素晴らしい人間だ。

思考スピードも速い。タイピングも速い。

見た目もそこそこ。ちっこくて声がロリでお肌にシミもなくて

何の努力もしなくたって常に勝ち組にいる。

----------------------------------------

それが「私」

この醜い私が「私」

----------------------------------------

 

もう否定するのはやめようよ。

隠すのもやめようよ。

隠さなくったって、彼は傍にいるもの。

彼さへいれば、私は「病人」でいる必要がなくなる。

 

眠らなくったって誰にも迷惑をかけない。

誰からも必要とされてないから。仕事があるわけじゃないし。

最低限「自分から死ぬ」のだけ、しなければいい。

無理に外出しなくてもいい。

日光をあびなくてもいい。

家族にイラついてもいい。

誰かと喧嘩してもいい。

友達に唾を吐いてもいい。

 

だって

 

プライドが高いんだから、当然「起こりえる事象」なんだから。

 

 

全てが当たり前だった。

「なんでこうなるの?」

「なんで私の人生こんななの?」

「どうしたら不幸じゃなくなるの?」

「なんで周りは幸せそうに見えるの?」

 

なんで家族を愛しているのに憎んでいるの?

 

なぜ答えがでないのか。

それは自分を客観視できていなかったから。

そうできる心の余裕も、よりどころも、なかったから。

 

ねぇ、自分が醜くてもいいじゃない?

この世はとてもバランスのとれた世界だもの。

一人の醜い人間がいるなら世界のどこかに美しい人間が一人必ず存在することになるのよ?

それに時は常に動く。

状態も変化しつづける。同じでなんていられない。

本当に自分に気が付けば、昔よりずっと

もっと

操縦がらくになっているはずよ?

自分を変えたくなったら、ゆっくり変えていけばいい。

疲れたら休憩すればいい。

戻りたくなったら。

心細くなったら、彼に傍にいてもらえばいい。

 

 

私は・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

過去に無駄なことなんて一つもしてこなかったと言い切れる。

私の存在は・・・・・・・・・・・・・・・・・

ひとつたりとも無駄なことなんてないと確信できる。

 

悲しい事を感じられたから嬉しいことが何倍も嬉しく感じる。

怖い想いをしたから、安心できる場所の温かさが実感できる。

反対をしらなければ、その反対もわからない。

 

まるで絵具の色が増えるように、私の心は極彩色の緻密な世界になっていっている。

 

曇った目で、寒い心で、迷いながら、泣きながら

とにかく「会話上達」の本を読み漁った。

実際に誰かと会話できる未来なんて保障されてなかったのに。

ただただ、学校で誰とも会話が噛み合ってなかった自分を

どうにかしたくて、いつかどうにかなるんじゃないかと夢見て

諦めずに本を読んだ。

 

17年経った今ごろ、その時の会話知識が役にたってきたと感じる。

ニコニコ動画や生放送の時。

視聴者の人から「喋りうめーな」とか「ヒッキーと思えんトーク」とか

かなり言われている。

 

心療内科にも中学から通った。

心理学の本やテレビも隙あらばみていた。

2ちゃんねるの荒れたスレを見て怯えて傍観していた。

「なぜこの人は悲しい言葉を吐くのか?」

「この人の心の中には何が叫んでいるのか」

いつも考えるようになった。

 

老人がいれば老人目線だと花壇や手すりはどんな位置で

どんな景色に見えるんだろう。とか

自分より視線が高い人の世界はどんな感じだろう、とか

両足がない人の生活ってどんなだろう、とか

私みたいに心が病んでいる人には世界はどう見えるんだろうって

そう考える癖がついた。

むしろ毎日飽きることなくそんなことばかり考えて

「何でもいいから何かトークしてください」といきなりマイクを向けられても

話題に困らないほど、頭の中には「在庫」が山のようw

 

 

私の過去に無駄なことなんてひとつもない。

ただただ、前に進むだけ。

心が温かくなる物を欲して流れに身を任せていればいい。

願は必ずかなう。

願っていないと、探知機が弱くなる。

欲深くていい。

貪欲でいい。

無様でいい。

不幸だと叫び続けてもいい。

 

ただ自分の命を絶たないこと。

その一つだけ。

 

私は今とても幸せです。

自分が醜い心の持ち主であると気づかせてくれた全ての要素に感謝。

私には見えないけれど守護霊様がもしいるなら、ありがとうございます。

神様がもし存在するなら、ただ、見守っててください。

私はこれからもがんばります。

 

もう自分を否定しない。

常識という呪いも、言葉の本当の意味も、地位や名誉や美貌や見栄も

1から考え直してみたい。

本当に自分に必要なものだけ背負って

これからは軽いバケツを抱っこして歩こう。

 

 

最後まで読んでくれてありがとうございます。

 

久しぶりのブログです。
元気にしてましたか?
私は…相変わらず彼氏と大ゲンカしてリスカしたり警察のご厄介になったりイベント盛りだくさんです。

ですが実家を逃げるように引っ越しして一年弱、緩やかに変化してきたことがあります。
それは「ケンカした人と中治りする確率が格段に上がった」ことです。
あとは怒りに腹煮えたぎり暴れることよりも、子供のようにおお泣きするようになりました。
私にはこの変化の理由が未だ解明できませんが
彼は言います。

「一度でもケンカした人とは前よりも強いきずなで結ばれる」
「僕にはできない才能だから尊敬するよ」と。

尊敬されるようなことをしている覚えがないので恐縮です…
でも実際にケンカしたはずの人と気兼ねなくラインや現実世界で笑って会話しているとき
菅家する前より手汗をかかなくなりました。

それにしたってやっぱり誰かと喧嘩して大泣きして、それを慰めてくれるのはやっぱり彼氏です。
彼氏からパワーをもらっているにすぎません。
なので自分の自信につながるわけではないんですが、彼がいる限り、他の誰かを失ってももういいやという気持ちは濃くなりました。
だからなのでしょうか。
元気が回復してくると「納得いくまであいつと会話してくる!」と私は家を飛び出していきます。
そして仲直りできてしまうのです。

「あなたのことがもっと知りたい!」
「なんでケンカになったのか解明したい!」
「あなたの心の構造、生い立ちを聴きたい!」

オギャーと真っ白な状態で生まれてきた子供同士、言葉が通じる限り、感情に共通点がある限り
分かり合えないことなんてないはずだから!
と私がかなくなに信じ続けているからでしょうかね…?



そしてまだ主治医にも報告していない「怒るより泣くことに専念したこと」
これは…彼氏に効果絶大だったようです。
男は女の涙に弱いと昔からよくいいますが、本当ですね。
私の中での記憶はあいまいですが、彼が私の父親の前で土下座して「ごめんなさい」と謝罪する場面がありました。
「トオルさんからは身を引きます」とそんなことを言っていたよう泣きがします。
そこからどう話が進んだかわかりませんが
いつもなら怒り狂ってリスカや皿投げ、薬服用をしていた私が大泣きして
「また地獄の始まりだー!!!うああああああ!!!!!」
と叫んでから彼の態度が変わった気が、なんとなくします。

あとはタイミングよく主治医が「事件が起きたら布団で寝るようにしてください。とにかく寝て!」と押してきたので、暴れることを一切やめて寝込む癖に変換しました。

すると彼氏の精神状態が安定し、寝込んでいる私に「大丈夫?」と励ませるまでになったのです。
「無理して料理つくらなくていいよー」とか
「プリン買ってきたから一緒に食べよう?」とか
「帰りが遅くなってごめんね?よしよし」とか…


(;’д’)えええええ


相手に変わってほしければ自分が先に変われとよく聞きますが、効果てきめんすぎです。
でもまぁ、躁鬱病の私にしてみると布団に賞時間いるのは鬱気質が悪化するので
本当は良くないらしいのですが
メリットとデメリットを天秤にかけたら明らかにメリットが多かったので
仕事をしていない寝込んでも誰の迷惑にもならない自分のことがどうでもよくなり
彼の元気で甲斐甲斐しく面倒をみてくれる姿を見ていたら
調子のいい日は普通に起き上がれるようになりました。

喧嘩も激減し、一か月前に警察のご厄介になったっきり、救急車とも無縁です。
穏やかすぎて怖い…
実は幸せ恐怖症だったんじゃないかと思うほど今の幸せにビクビクしてます。



で、話は変わりますが
虐待された子供というの被害者意識よりも加害者意識を強く抱くそうです。
殴ったやつが100%悪い、とは思わないんですね。
きっと僕わ悪い子だからお母さんは叱ってるんだ、とか
私がいい子に育たなかったからしょうがないとか
大人の虐待の場合は「この人には私がいなきゃ」「私が彼をダメにしてるのかも」
という、なんにせよ「自分が悪いのかも」という意識が「誰にでも」芽生えます。
それと同時に人間にはプライドや自尊心が必ずあるので
力でねじ伏せられればそりゃ犬のようぬ威嚇や警戒をするようになります。

私はとあるゲームセンターの店員さんと喧嘩→仲直りの行程を得て
「ん?おかしいな?」と気が付いたんです。
こんなこと心理学の入門書にも当然書いてある基礎知識かもしれませんが
被害者は「殴った相手を許せない自分はダメな人間だ」「同じことの繰り返した」と
落ち込みがちだけど、でも実際は「許せないのではなく許してほしいという気持ちが中心にある」
それに気が付かないといけない。
そんな気が個人的にしました。

私は私を虐待した長女に「許せない!憎い!怖い!家族のふりはできるけど傍にいると違和感が消えない!」とそればかり繰り返し心に渦巻いていました。
そして試しに気分がいい日に姉と軽く会話して「あの頃のことを根に持ってごめんね。ねーちゃんのこと許すよ。お互いにまだ子供だったもんね」と言ってみたんですが
なぜか心のモヤモヤは消えませんでした。
「しっくりこない」が正解でしょうか。
その原因が分からなかったのですが、ゲームセンターの店員さんと喧嘩したおかげで
許してもらえてよかったー!という気持ちがぶわっと放出されたんです。
そこで「あれ?」と…
もしかして、許したいんじゃなく姉に許されたい私がいたりする?
と疑問に思い心と対話しました。
その結果、やはりズバリということになりました。

姉はきっと「は!?」っていうかもしれません。
「だって叩いたのは私じゃん」って…
でも子供ながらに私の中では「悪い子でごめん。許して」という意識が
根深く居座ってしまっているんですよね…。

きっとみんなそうなんでしょう。

ごめん、こんな私でごめんと誤り続けるから心の病になる。
根っこは皆一緒だと思います。

理想的な家族の愛のセリフはきっとこれです。


「お前は悪い子じゃない。許すよ。誤解させるようなことをしてゴメンな。
私たち家族は今のありのままのお前が好きだ。
病気のままでもいい。治そうとしなくていい。そのままでいていい。いい子になろうと頑張ってたんだな。辛かったな。頑張ったな。一人で病院に行かせてごめんな。
お前は昔も今も良い子だ。優しい子だよ」(長っ)

あー…言われたい。ぐすっ
でもこんなことが言える家庭があったらそもそも虐待自体ありえないですね…


長くなりましたが、試しに私の姉に「私を許すと言ってみて」と伝えてみますので
どんな結果になるか、こうご期待。
可能なら早めに報告しにきます。
では、朝5時なので寝ます。おやすみなさい