お久しぶりです。
ADHD(発達障害)、境界性パーソナリティ障害、躁鬱、など
たくさんの病名をたくさんの病院から言われてきた私ですが、
心の状態がとてもよくなってから何度もいきつく言葉が「愛」です。
愛はほぼ全ての心を救い、楽にして、体をポカポカと温かくしてくれるものです。
先天性の脳の障害や特殊な何かが関わっての心の病気で無い限り
私は「愛」で治らない心の不調はないと思っています。
しかし愛にこだわるのは宗教っぽくて自分が気持ちわるくなりそうだったので
別の方面から色々と試行錯誤する日々なのです。
でも悔しいかなどうしても「愛」が一番重要な要素であるとしか思えない現状です。
一番重要なのに…
一番はっきりとしない定義の言葉であり
一番手に入れにくいものです…
でも「愛」ってそもそも何でしょうか?
「愛」でネット検索をすると以下のものが用語翻訳として出ます。
→そのものの価値を認め、強く引きつけられる気持。
かわいがり、いつくしむ心。いたわりの心
大事なものとして慕う心。
とても漠然とした表現であり当てはまりそうなものを連想すると
たくさんありすぎて「むしろ愛ってそんな軽いものでもいいの?」と
不安になるぐらいです。
価値を認めひきつけられる→コレクターが当てはまりますよね
がわいがるいつくしむ→可愛い動物を飼うことが当てはまりますね
大事なものとして慕う→尊敬している人に懐き指示に従うなどが当てはまりそうですね
いたわり→怪我をしている人をみて可哀想と思う心かな?
どれも身近にあることが「愛」の意味に合致します。
私が思うに、愛とはこれら全てが「正解」であり、愛のみで構成されたものは
肉体がある限り「存在しない」と思っています。
今こうしてブログに文字を書きながら頭のなかでは沢山の言葉が渦巻いているのですが
面倒なのではっきり言います。
・幼少期に正常な愛を注がれた子供は大人になって「小さな愛」を拾えます
・幼少期に正常な愛を注がれなかった子供は大人になっても「小さな愛」すら拾えず存在にも気づけず
体や心にありとあらゆる悲鳴(歪み)が生じます
歪みに病名をつけて薬を処方するのが「病院」です。
愛を具現化し団体で傷を舐めあうのが「宗教」です。
愛を注がれて育った人間は、身近な愛を吸収する能力があるので、ペットを可愛がるとか
そんなありきたりな行為でも自分の中の「愛」を増やすことが出来ます。
愛が何か「感覚」でわかっているので砂の中からダイヤを見つける困難な作業でも「時間とチャンスさえあれば」
ダイヤを増やせます。
ですが、愛を感覚で認知できるレベルまで注いでもらえず、社会に放り出された人は、
自分の足の下にダイヤがあることすら気付けずひたすら癒しを求めて熱帯砂漠を漠然と歩くだけです。
癒しを求めなければ苦痛も少ないのでしょうが、残酷ながらこの世界は
愛をテーマとしたものが街中に転がってますし、テレビでもしょっちゅう流れます。
幸せそうな他人の顔を見て「自分も欲しい!」という気持ちを刺激されてしまうので
飢えがより一層強くなります。
街にこんな老人はいないでしょうか?
何歳になっても明るく活発で誰にでも優しいご老人。
逆に死んだ魚の目で笑顔もなく、目的もなさそうにうろつくご老人。
それらの人をみてあなたは「ああいう老人になりたいな」と感じることもあれば「ああはなりたくない」と
様々に思ってきたでしょう。
基本的に人間とは「愛」を探しさまようように出来ているんだと私は思います。
これだけ生物としての歴史があり、脳が発達し、どんな感情も言葉で表現できる時代になったのに
「愛」だけが霞のような存在のままなんです。
言葉で表現できてはいけないものだという謎の使命感すらあります。
さて、回り道をしてしまいましたが、愛について語った理由は
私の心の状態が安定したときに感じたものが「愛っぽいもの」だったからです。
交際相手の男性が勢いまかせで発した「君が嫌がっても俺はそばを離れない!」という言葉で
彼が愛をこめて発した言葉というわけではないのですが、
私の心がものすごい勢いで「安定」していった魔法の言葉でした。
他の人に同じ効果があるとは思いません。
求める愛は人それぞれ違いますし、私の場合は現実の記憶と置き換えてしまうほど
妄想が強い人間だったので劇的な効果を発揮しただけだと推察してます。
しかし
一度得た「感覚」は消えません。
幸福感、安心感、温かさ、愛しさ、感謝、
さまざまな良い感覚がすごい勢いで私の全身を満たしていったのを今でも覚えています。
それからの私は「何もしなくても」自分への自信がつき(過剰な自信ではなく適度な自信です)
悲しい過去を思い出しても深く落ち込まず、立ち直りも早く
特に変化してよかったと思った部分は「何もしない時間を楽しめる」というところです。
数年前までは考え事をするか動くか、不安が強い時は迷惑がられていると分かっていても
誰かに電話をして不安から意識をそらすという行為をし、苦痛から逃げる日々でした。
だから嫌気がさした友人からは嫌われるし、自分は利用されていると察した知り合いも距離をおいてきます。
なので自然と「ごめんね」という言葉が自分から多く出ていましたし(嫌われたら不安から逃げる手段が減るし)
ごめんという謝罪ですら相手のためではなく自分のためです。
そんな自分を好きになれるわけありません。
電話もメールも常に自分から送るのみで「何でそっちからメールくれないの!?私が不安がりなの知ってるくせに!」と
逆ぎれすることも頻繁にありました。
しかし現在は、自分からメールする回数と相手からメールが来る回数は釣り合っていますし
なかなか相手から連絡がこなくても「なんでよ!!」と気持ちが揺らぐこともありません。
「まぁいっか」で終わりです。
ゴメンという謝罪の言葉を言うのも激減し、本気で申し訳ないことをしたと思った時にしか謝罪しないようになっていってます。
謝罪しても許してくれない時や離れていってしまう人がいても「まぁいっか」で終わります。
…それでも病的に歪んでいる部分はまだまだありますが…
今後の私は砂の中のダイヤを見つけられる「感覚(センサー)」を得たので
時間と経験が勝手に私を癒し成長させていくという確信を持っています。
それくらい自己肯定がしっかりしてきたんだと推察しています。
つまり自分が必要としている「愛」が手に入りさえすれば
認知行動療法だとか、カウンセリングだとか、そういう「なんか難しそうなやつ」に頼る必要なんてないってことです。
その治療の中で探していた愛を結果的に得られた人はまだいいですが
治ると信じ頑張り続ける人やカウンセリングの予約を長々と待っている人には
「待つぐらいなら恋人つくれ」と言いたいです。
だからって恋人や愛をくれる人とそう簡単に出会えない事実も私は知ってます。
血の繋がる親ですらくれない、母が自分の身を削りながら絞り出す愛。
それを赤の他人が簡単にくれるわけありません。
でもチャンスがまったくない人など存在しないです。
自殺しない限り、チャンスは何度でもあります。
そして「自力で何とかする方法」もいくつかあります。
代表的なのが瞑想。お寺に入るのが無難です。メリットとしては
・同じ目的の仲間がたくさんいるので寂しくない
・強制ではないのでいつでも離脱できる
・環境が変わり自分を客観視できる
・瞑想により自分が求めている愛を自覚できる(見つけやすくなる)
・宗教そのものが愛で構成されているため癒される確立が高い
・仏もキリストも死者が崇める対象なため愛が消えるという不安を抱かなくてよい
デメリットとしては
・(精神的に疲弊しているので当然だが)めんどくさい
・色々なものを捨てないといけなさそうで勇気がいる
・効果があると信じられない
・宗教という言葉がなんかいや
などなど…
年齢制限もなくお金も必要なく厳しい罰則すらないようなお寺でも
軽い気持ちで入れるほど私たちには「お寺」が身近ではないんですよね残念ながら。
次に自力でやれるものといえば「自分が自分の母親となる」というものになります。
こちらの方法を選ぶしかないという人が一番多そうなので
私も間違った情報を書き残したくありません。
なので今以上に知識を蓄えたのちに、この方法の専用ページを作りたいと思います。
お急ぎの方は「愛着障害(スペース)治療」で検索してみてください。
個人の方々がチラホラと情報を書き残してくれていますのでどうぞ。
今回のブログはここまでになります。
読みやすくと常に意識して書いているつもりですが文法の乱れや
誤字、伝えたい意味すらはっきりしない気持ち悪い文も多く読者様を不快にさせていることかと思いますが
あえて直していません。お許しください。
私の心の変化が数年後にこのブログで実感できるよう自分のために直さないのです。
逆に数年前の記事を読み、私の文から真実味を強めてくれる読者様がいてくれたらいいなという
願いもこもってます。
罵詈雑言、質問疑問(来たことないけど)来たら対応する気でいますので
お気軽にどうぞ
ではでは、最後まで読んでくださりありがとうございました。
