一人でいることに耐えられなかった時があった。 絶えず誰かに会って集まりに出た。 しかし、何時間もうるさく笑って騒いだのに、家に帰る道には心が寂しい時が多かった。 虚しくもあった。 こんな夜を繰り返しながら悟った。 ただ一人であることがぎこちなくて、寂しくて人に会う方法には問題があるということを。 その時から本音を打ち明けることができる親しい友人、絆が深くなくても楽しく対話できる人だけをたまに会った。 大勢の人が集まるにぎやかな集まりは、年に数回で十分だった。



自然に一人でいる時間が長くなった。 最初はひどい目にあった。 友人たちが何をしているのか気になってSNSに接続し、時々意味のないメッセージもやりとりした。 やはり限界があった。 結局、孤独という大きくて深い深淵を避けることができなかった。 寂しさは向き合って受け入れなければならない宿命だった。 長い間一人で時間を過ごしながら、また友達と対話しながら分かるようになった。 寂しさを感じるのは私だけではないという事実をだ。 友達が多くても少なくても恋愛中でも関係なかった。 年上の大人も富と名誉を持った人も寂しさの前で平等だった。



次第に一人の時間の楽しみ方を身につけていった。 映画を見に劇場に行き、静かな本屋や学校の図書館で本を読んだ。 路地を好奇心に満ちた目でのぞき込み、カフェで何かを考えてつぶやいた。 見たい展示があれば美術館で飽きるほど絵を見て出てきた。 最初は少しぎこちなかったが、すぐに平気になった。 周りを見回すと、私のように一人の人が少なくなかった。 何よりも他の人たちは私が誰と来たのか、何をするのか心配したほど興味がなかった。



寂しさは突然訪れたが、頻度や強度は減った。 ある瞬間から怖くなかった。 寂しさはもはや克服すべきものではなかった。 ただ時たま時がくれば訪ねてくること、過度に意識するよりは私の内面や好きなことに没頭しているうちにいつのまにか遠ざかっている感情になった。 寂しさと共存する方法を知ったのだ。



皮肉な事実は一人でいる時間を楽しめるようになってから、人々に会う時間も以前よりもっと楽しくなったということだ。 寂しさに震えなくなって硬くなった内面が自信を育て、多くない知人たちとの出会いがより一層大切になり最善を尽くすようになったためだ。





ポータルサイトの検索窓に「寂しさ」と打てば「克服」、「勝ち方」等のキーワードが相次いで出てくる。 それだけ多くの人が寂しさを感じ、乗り越えようとしているという意味だろう。 孤独を永遠に、完全に吹き飛ばす方法などない。 私たちにできることは、寂しさと人間の存在が不可分の関係だという事実を認めることだ。 寂しさは極めて自然な感情である。



だから、寂しさと平和に共存するための自分だけの方法を探してみよう。 内面に没頭することも、新しいことに挑戦することも、楽しいことに溺れることもできる。 家で好きなテレビ番組を見ながら怠けたり、おいしい食べ物を食べてもいい。 ただし、このすべての解決策の鍵は、家族でも恋人でも友人でもない自分にあるということだけ覚えればいい。



孤独という感情は否定的に考えがちだが、振り返ってみると私たちは孤独な時に最も多く思索し成長した。 少しは気楽に寂しさを受け入れてみよう。 心を入れ替えるだけでも、一人だけの時間はもっと豊かで充満するだろう。