陽気がいい。
春はようやく春になったことに気づいたらしい。
陽射しは冬には見せない明るさと強さをもって注いだ。
朝露に濡らした羽をようやく乾かして、蝶がひとひら寝床の葉の裏から舞い出た。
歩くほどに、用心に巻いてきたストールが邪魔に感じる。
アンゼリカは少しいらついた心持でそれを乱暴にはずした。
涼しくなった首にわずかの風を受けると、春のにおいが急に鼻孔をくすぐるようだった。
知らず口元に笑みを浮かべて、水色の空を少し見上げ、学校への道を急いだ。

「今朝イギーに会ったか」
教室に入るとすぐに、級友たちを擦り抜けてカムが寄ってきた。
待ちかねていた体だ。
聞かれて視線を巡らせるが、室内にイギーの姿は見えない。
「いいや。どうしてあんなやつ」
「泉の桜が死んだなんて吹聴している」
アンゼリカの耳に口をよせ、周りを伺いながら、カムは気持ち声を落した。
「たしかめにいかなけりゃ」
通学鞄から教本を取り出す手をとめ、眉をひそめる。
イギーの悪ふざけはここのところ度を越している。
多少食傷気味なのだ。
「昨日の放課後にはなんともなかったじゃないか。花がよく咲いて。くだらないデマさ」
つぼみがかたいうちから、こまめに足を運んでいたのだ。
昨日でそれがようやく満開になっていた。
一緒に観察しているのだから、カムだってそんなことは知っているではないか。
うんざりして首を振るアンゼリカを制して、カムが口の端を歪めて笑った。
「なんともなかったら氷をおごれと言っておいたのさ」
カムはアンゼリカの軽くなった鞄をつかみ、先に立って駆け出した。
ストールを机の中に素早く放り、アンゼリカも彼を追って始業前の雑踏へ飛び出した。

泉は、アンゼリカやカムの家とは反対方向の、学校の向こうに位置している。
イギーの家からは近く、この時期は少し遠回りして、毎朝桜を眺めてから登校するのだと以前聞いたことがあった。
「でも、氷にはまだ早いんだろ」
「コマじいさんのとこは四月朔日からやっているよ。ほら」
二人の足はちょうどコマじいさんの店に差し掛かっていた。
菓子や飲料のほかに、文具やこまかな玩具なども売る、生徒たち御用達の小さな店だ。
軒先には氷ののぼりが立ち、ほんの時折り吹く風に揺らめいている。
戸口は放たれていたが、こどもたちが授業中のいまは客の姿はない。
「寒そうだな」
「今日の気温ならちょうどいいさ。アンゼリカ、ラムネがほしくないか」
制服のポケットを探りながら、店内の飲料庫のあたりを物欲しげに見遣った。
硬貨が鈴の音を鳴らして触れ合っている。
「見咎められるぜ、サボタージュを」
諌めたものの、登校中に喉に感じていた暑さを思い出して急に渇きを覚えた。
カムはまったく正しい。
こんな日にラムネがないのは酷というものだ。
しかし学校へ連れ戻されては詮方ないのである。
カムは肩を竦めて素直に同意してみせた。
「そうだな。行こう」

ストールを巻かない首も薄く汗ばむころに泉は見えてくる。
手前には大きなけやきが二本そびえ、周囲には小柄なこぶしが不規則に立っていて、簡単な林を作っていた。
桜はその向こうに、泉の上へ腕を差し出すかたちで生えているのである。
黄色みの強い、やわらかそうな新芽がいっせいに吹き出したけやきの枝は、普段なら無理にでもそのなめらかな幹を登ってさわろうとするのに十分な魅力をもっていたが、二人の目はその奥に現れるはずの桜色だけを探していた。
「おかしいな」
重なる木々の枝を透かしても、昨夕たしかにあった桜煙は見えない。
口を噤んだまま訝しげな表情を交わし、桜の根元をめがけて歩いた。

どのくらいの樹齢なものか、二人が腕を広げてつないでも抱えきれない太さの幹である。
真直ぐ天には伸びずに泉の側へ傾いでいて、夏には繁った葉が屋根になり、水遊びには格好の場所だ。
今は葉の代わりに満開の花が、水面にほのかな色を落しているはずだった。
「一晩ですっかり散るものか」
たっぷり続いた沈黙のあと、アンゼリカが金切り声を出した。
じっとあたりへ視線を巡らせていたカムは慎重にうなずきながら幹に触れた。
少しも滑らかでない表面を無理に撫ぜると、てのひらに薄い引掻き跡がついた。
「散った花弁が残っていない。まだ樹には葉が出ていない」
不可思議な目を合わせ、二人はゆっくりと泉へ降りた。

飛び石をいくつか踏み、泉の中ほどにたいらな岩が作っている島へ飛び移った。
二人が乗れるだけ広いが高さはなく、3寸下は水面だ。
雨上がりにはたいてい沈んでしまう。
背中あわせにしゃがみ込み、水底に目を凝らした。
花弁が水中に積もっている様子はない。
むろん水面にも浮かんでいない。
それだけを簡単に確認すると、カムは来た道を戻り、桜の幹の下へ移動した。
前髪が濡れんばかりのところで水を睨み、桜花の痕跡を探す。
アンゼリカは島の上で向きをかえ、水に手を差し入れた。
気温は上がっても、地下から湧き出た泉の水はまだ長く肌をさらせないほどに冷たい。
それでも水中で幾度か手のひらを振り、久しぶりの感触を楽しんだ。
ゆるく流れる水が、冬のあいだにすっかり日焼けの抜けたアンゼリカの肌に流紋を浮かべる。
刻々と変化してゆく模様を見つめながら、幾度か強めのまばたきをした。
「カム」
まばたきのあとで、アンゼリカが急きこんで叫んだ。
「もういるよ後ろに」
「水に色がついている。手が桜色に見えるんだ」
アンゼリカが示す水中の手のひらを見遣ってカムがうなずいた。
「僕も見た、岩魚石が色づいていたから報告にきたんだ」
桜の根幹の奥まったあたりは魚の寝床になっている。
水面に迫った幹で子どもが手を出しづらいのだ。
岩魚石というのは、その中央に置かれた透け感のある白い石である。
二人は浸ったままのアンゼリカの手を見つめた。
薄い爪が桜貝だ。
見つめたまま、飛沫をたてないよう、ゆっくりと手首を差し抜いてゆく。
肌は水面から覗くとすぐに色を戻したが、すっかり水上にあげてしまっても、指先から落ちるしずくは妙に赤く見えた。
淡く辺りを漂っていた桜花のにおいが、にわかに強くなる。
アンゼリカは手首をつたう水滴を、おそるおそる舌で掬った。
「甘い。ジュース。いや・・・」
カムも急いで水を口へ運ぶ。
目配せをして、同時に叫んだ。
「リキュア」
「そう、これは花味酒というんだ」
予想外の声に驚いて周囲を見回すと、桜の幹に頬杖をついて老人がたたずんでいた。
少年たちの見慣れた、ずんぐりした小さな人影だ。
「コマじいさん」
「はなみざけ。じゃ、これは桜のリキュールなの」
「そうさ。君たち昨晩月は見たかい」
授業を抜け出していることを叱る様子もなく、老人はゆっくりとした足取りで泉へ降りてゆく。
骨張った手に、幾本かのガラス瓶の入ったかごを携えていた。
「見たよ。青いの」
「めずらしい色」
アンゼリカとカムは顔を見合せてうなずいた。
コマじいさんもうなずいてしわの多い顔に微笑みを浮かばせる。
「そう、あの青い月は花味月というんだ」
「そんなら知っている。青い月光で花が映えるのでしょ、花見月」
「そう、それともうひとつ、青い光を浴びるとね、桜花は一晩にして散ってしまうのさ」
石だらけの地面に足元のおぼつかない老人へ手を差し出して、カムが尋ねる。
「なぜ」
「さてな。でもこうして質の良い酒が出来上がる」
老人はかごからアルマイトのコップを取り出し、泉のリキュールを少し掬った。
揺らして香りを確かめてから口をつけ、にっこりと微笑む。
白く長い眉尻がいつもよりもっと下がった。
味は合格のようだ。
かごのさらに奥から漏斗を探し出して、ガラス瓶へ注ぎ始めた。
二人は岩の上で安定の悪い瓶を支えてやりながら、落ちてゆく液体を見つめた。
透明な瓶に入れてみると、水はたしかに桜の色合いだ。
わずかにとろみがついていて、心良い音を立てながら満ちてゆく。
あたりはすっかり桜のにおいに覆われた。
「僕ら初めて見たな」
「そうさ。前回の花味月は十年も前だもの。君ら二つか三つだったろう」
アンゼリカとカムは歓声を上げて手を打ち合わせた。
「じゃ、イギーはきっと知らないぜ。本当に桜が死んだと思ってるんだ」
すべての瓶に酒を詰め終えてしまうと、ねじ式の栓をしっかり閉めたのを確認して、老人は腰を押さえて立ち上がった。
「店まで運ぶのを手伝ってくれるかね。氷をごちそうしよう。花味酒が手に入った年は、これの氷を出すんだ」
少年たちは飛び跳ねてもう一度手を打ち合わせ、二つ返事で両手に瓶を受け取った。
「アンゼリカ、イギーに氷は無用だと言ってやろうぜ。そしてぼくの浮いたラムネ代でコマじいさんの特製氷をおごってやるのさ」
「ああ、僕らそろそろ仲直りしなくちゃ」

時刻は昼に近付き、気温はまた上がったようだ。
あのストールはもうしまって、帽子を出しておかなけりゃ。
知らず駆け出しそうな足を抑えながら、アンゼリカは葉むらから漏れる陽に目を細めた。