鬼塚氏に学ぶ | トニーの成幸ブログ

男は農家の五人兄弟の末っ子として

鳥取県で生まれる。


少年時代は、

陸軍士官学校進学を目指していたが、

度重なる怪我や病気のため断念。


その後、見習士官を経て将校になる。


戦争では前線部隊を希望したが、

残念ながら留守部隊として

日本に残ることに。


今まで面倒をみてくれた中尉の

戦死通知が届き、

その中尉の願いもあり、

男は養子になった。


養子先の家業が

ビアホールなどを経営する

ヤミ屋であったことに愛想を尽かし

3年後に退職。


これから何をするかと思案していた際、

県の教育委員会の課長から、

「青少年がスポーツに打ち込める

いい靴が欲しい」との助言を受ける。


男は、非行に走る少年、

売春婦になる少女を見て、

自分の一生を「日本の青少年の育成」

に捧げると誓った。


そして、小中学校や警察に納める

配給問屋の認可を得て商社を設立。


しかし、スポーツシューズの

製造技術は全くの素人であり、

仕入れ先の工場に見習いとして

雇ってもらい特訓を受けた。


その後、

スポーツシューズの製造販売

を行う会社を設立。


最初の製品として、

バスケットシューズを手がけ、

時間があれば体育館へ通い、

選手の言葉に耳を傾けた。


「足にフィットし、滑らない靴底」


この課題に頭を抱えていた

ある日の夕食どき、

キュウリの酢の物に入っていた

タコの足の吸盤を見て、

靴底に吸盤のような凹型デザインを

思いついた。


早速、開発に取り掛かり、

製品化したバスケットシューズを販売。


全国のバスケット部や競技会場に

足を運び、商品をアピールした。


そのうち、そのシューズを履いた

チームの優勝などもあり、

次第に売り上げを伸ばす。


シューズのブランド名に

強さと俊敏性を表すものとして

「虎印」を命名するも、

既に商標権を他社に取られていたため、

「ONITUKA TIGER」として

売り出した。


その後、

マラソンシューズの開発にも手掛けた。


当時裸足ながらとても早かった

アフリカの選手から

「履いていないと思わせるほど軽い

マラソン用のシューズが欲しい」

との依頼を受けて開発。


さらに、風通しのよいシューズ

ということで、

足と中底に溜まった熱い空気を

吹き出し、

冷たい外気を取り込む

画期的な構造のシューズを開発した。


その後行われた東京オリンピックでは、

男の作った靴を履いた選手が

多くの競技で金メダル20個、

銀メダル16個、銅メダル10個の

合計46個を獲得する。


世界中の人々が驚き、

名実ともに世界一のスポーツシューズ

メーカーとなった。


男の名前は、鬼塚喜八郎。

アシックス株式会社の創業者である。


その後もIOC会長と会合を重ね、

発展途上国へのスポーツ用品寄贈に

尽力した。


1974年 藍綬褒章


1978年 紺綬褒章


1983年 オーストリア共和国功労大銀章


1988年 勲三等瑞宝章


2001年 IOC功労章を受章


晩年は、絵画を習い、

特にヒマワリの油絵を好んで描いた

とされ、89歳で亡くなったが、

葬儀には献花の代わりとして

日本中のヒマワリの絵画を集め、

献花された。


葬儀には、イチロー、高橋尚子、

野口みずき等、

日本を代表するトップアスリートが

参列し、故人を偲んだという。


生前、鬼塚氏は成功者になる極意は、

「私心なき素直な心」だと言っていた。


「人のためになる夢は叶いやすい」


これは、成幸の法則の一部でもあるが、

そんな法則を心に留めて

自らが抱く夢を叶えて欲しい。


良い週末をお過ごしください。