ニコンミュージアムを見学した続きです!
今年で10周年とのことですが、品川にあった頃よりも広くなって、展示品も面白くなっていた印象です。
10月30日から、企画展「大井での軌跡 ニコンと街と人と」が開催中でした。
ニコンと大井町の歴史が分かります。
ニコンはもともと日本光学工業といい大井町に設立されました。
大井町駅からニコンに続く道を「光学通り」というのはその名残です。
戦前は三菱財閥の光学兵器の会社だったんです。
以下、ウィキペディアより
1917年(大正6年)7月 - 光学兵器の国産化を目的として、東京計器製作所光学部・岩城硝子製造所の反射鏡部門を統合し、岩崎小彌太の個人出資により「日本光學工業株式會社(日本光学工業株式会社、にっぽんこうがくこうぎょう)」を設立。本社は東京計器製作所内。12月、藤井レンズ製造所を買収。旧・藤井レンズの技術を承継し、民生用双眼鏡の製造を開始。
民生品として、カメラのレンズも作り始めました。
Anytarはレンズのブランド名の初めでした。
まだ「Nikon」のブランドはありませんでした。
(Nikonはカメラのブランドで、戦前はカメラを作っていなかったためです。)
1932(昭和7)年
今も使っているレンズのブランドである「Nikkor(ニッコール)」が登場しました。
日本光学工業→日光(略称)→ニッコールと言われます。(諸説あり)
そのニッコールが初めて35mmカメラに装着されたのは1935(昭和10)年でしたが・・・。
なんと! 搭載されたのはキヤノン(当時は精機光学研究所)の小型カメラ・ハンザキヤノンでした。
ここで、キヤノンの歴史にも少し触れます。
1933(昭和8)年、吉田五郎さん(以下、ヨシゴロー)が「精機光学研究所」という小さな会社を立ち上げました。
ヨシゴローさんは妹の婿の内田さんを入れて、カメラ雑誌に「カンノンカメラ」の広告を出したが、カメラは発売されずじまいでした。
ヨシゴローさんは経営者の器ではないと、内田さんから会社を追われた。
でも、ヨシゴローさんがカメラを作ろうとしなかったら、今のキヤノンは存在していないのです。合縁奇縁・・・
精機光学研究所は、内田さんたちが引き継いで、ハンザキヤノンに続いてニッコールレンズを搭載したカメラを作りました。
これが「セイキキヤノン」でした。(写真)
ニコンとキヤノンはこんな共存の歴史があるんですね。
戦後、日本光学工業は光学兵器は作れなくなったので、平和産業への転換の中でニコンはカメラを作ることになります。
このカメラのブランドが「Nikon」
ツアイスイコンの「IKON」に否定の意味のNを付けてけしからんとか、カメラはコンタックスのパクリだとか、紛らわしいとかクレームをつけられたりしました。
こうして、カメラ本体を出したことでキヤノンの商売敵になったわけで・・・遺恨(IKON)が残った?
ともあれ、ニコンI(1)型が試作→量産へ。
I(1)型はフイルムサイズを34×24mm(二ホン版)という変則的はサイズだったので、ニコンM(モディファイ)型に変わり36×24mm(ライカ版)に変更・・・
※現在、IもMもお宝です。
1950(昭和25)年にニコンS型が量産されました。
S型はニッコールレンズとともに朝鮮戦争でダンカンなどの有名従軍カメラマンにも使われて、ニコンの名が世界に広がるきっかけになりました。
だからニコンはダンカンに足を向けて寝られないのです。
こうして現在に続くカメラメーカーとしてのニコンの歴史がはじまったのです。
そして、1959(昭和34)年に一眼レフ・ニコンFの登場でニコンは世界一のカメラメーカーになったのでした。

1960年代はニコンF でした。
システムカメラとして発展。報道用の他、高級アマチュアに浸透。
1970年代は ニコンF2
機械の精度がさらに上がりました。
1980年代からは ニコンF3の時代
電気の仕組みが進みました。
このあとF4、F5、F6まで行って、銀塩カメラは終了・・・(と言っていいのかな。)
(その3につづく?)
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