新たな聖地を数多く生み出した「スーパーカブRei」、最終話とのことです。
コミック2巻も発売予定。
礼子の横顔
三好礼子
昭和32年12月12日生まれ 埼玉県所沢市南住吉23-4
...
昨年、高校を卒業し、好きなバイクから離れられず原稿輸送員となる。女のコはめったに雇ってもらえないが、頼み込んでようやく、OKをとったとか。
パイクに毎日乗って仕事をして いるうちに、ますますその魅力に 取りつかれ、ハスラー250で日本1 周を思い立つ。少しずつ準備を進め10月で会社を辞め、11月26日出発した。
「計画はほとんど立ててないけ れど、まず能登に行くつもり。その後、山陰をまわって九州へ行こうかナ」と言う、ノンキなのだ。
旅の目的は?
「別にないワ。行く先々で、その土地の人や風土を 見てきたいの。それで、自分に得 られるものがあればいいんじゃな いかと思ってます」
「でも、私オッチョコチョイだか ら、何が起こるか分らないワ」ケタケタケタ――と笑う。健康的な19歳の女のコだ。
ミスター・バイク愛読者諸クン ーハスラーに乗ってる三好礼子 クンを見たら声をかけて見ようヨ。すてきな仲間の誕生だ!
1976年11月に独り旅を初めて、8ヶ月後の記事。
危ない目にも遭っているみたい・・・
「日本一周乙女の独り旅」 三好礼子
高校3年の秋、アルバイトをして自動二輪の免許を取得した。念願だった“旅”の相棒に選んだのは、スズキハスラーTS250。
購入を巡って父親とは大喧嘩となったが、一週間後、枕元に封筒に入った現金が置いてあった。“一生安全に乗るよ!”。うまく言葉にはできなかったけれど、心に誓った。ドキドキしながらキックペダルを踏み降ろし、東久留米市の畑の靄立つ実家から、毎日のように何処かへ向かった。隣町でも大冒険。ほんの1キロでも幸福感に満たされた。バイクは、自分の魂がその故郷へと向かうための、まさに鍵だった。
第1回 モノローグ
運命とは、その人にとって一番タイミングがいい時に、一番インパクトのある(最良の)カタチでやってくると信じている。「転職失敗事件」は、その一番目の出来事だった。あの瞬間、18年間のさまざまなことは、プラクティスとなった。すべては生まれ変わるための助奏にすぎなかったという思いは、旅に出てから更に強いものとなった。
1976年11月26日、私とハスラーの珍道中の幕は、エンジン音と共に開けられた。
あと10日で19歳という冬の朝。あの時、私は“生まれた”のだと思う。
ようやく一人暮らしが馴染んだ恵比寿のアパートを引き払い、長姉から譲ってもらったキスリング※1に生活用具を詰め込むと、わずかなお金を握りしめて住み慣れた街を背にした。
行き先は決めず、知り合いもいなかったが、スズキのハスラーTS250という相棒が一緒だったからだろうか、不思議と怖さはなかった。日本一周ツーリングへの静かなるワクワク感は、一人の少女に新しい命を与えてくれたのだ。
幼い頃の私は、自然や表現する事をこよなく愛する自由心と、家を飛び出して大人になりたい自立心とがごちゃ混ぜになり、いつも身体の一番奥底が苦しく、もがいている“混沌少女”だった。夢はたくさんあるけれど、苦しい。真剣につきあえる友人たちにも恵まれているけれど、苦しい。
どうすればいいのかが分からなかった16歳の夏、アルバイト先でバイクと出会う。そして、バイト仲間のタンデムシートに乗せてもらった瞬間に、「これだ」とピンときた。私は、私の翼となってくれるような相棒欲しかったのかもしれない。目の前に、地平線の遥か彼方まで続いている道が見えた。もちろん空にはどっか~んと、大きな虹だ!
が、車とまったく無縁だった三好家ゆえ、原動機付自転車から始まる私の「バイク創世記」には、笑いと涙と汗が欠かせなかった。クラッチ付きを練習した広場では、指南役と大騒ぎ。一万円で買ったホンダのCL50でのアルバイト通いでは、頻繁に止まるも、原因を突き止めるまでが大冒険だ。
「え、ガス欠?」「詰まったって…で、キャブレターって何?」。恥などかきすぎて、ちっぽけな見栄も虚栄心も何処かへ吹っ飛んでしまった。とにかく何があっても楽しくて、バイク雑誌を買ってきては、広告の隅々まで目を通し、知らない世界にうっとり。実際には町内一周であっても、「学校から帰ったら何処に行こうか」と想像するだけで心が踊り、まさに“バイクに夢中”。
そして、免許取得制度が大きく変わると聞いて慌てて取った自動二輪免許を手にした高校3年生の秋には、目指していた美術関係ではなく、「卒業したら原稿輸送のプレスライダーになろう」と思い、すぐに行動に移していた。
つい先日、都立保谷高校の卒業生記録が出て来て驚いたのは、私の就職先の「日本モーターサイクル」が、何処にも書かれていないことだった。就職はわずかだったとはいえ、先生達も(もちろん親も)「それはナンなのだ?」と疑問に思っていたのだろう。
急ぐ記者の原稿や写真フィルムをいち早く新聞社に届ける原稿輸送、通称プレスライダーは、パソコンもファックスもない時代には、なくてはならない存在だった。身体を張って重要書類を運ぶことは、すこぶるカッコ良く思えたし、事実、腕のない人は雇ってもらえず(たぶん)、ライダー憧れの職業であった。新聞社の旗を社旗棒に巻き付けて、官庁街を走り去る姿は威厳に満ち溢れ、新米ライダーの私には夢のような姿だった。
けれど、最初からプレスライダーを目指していたのではない。いつもバイクと一緒に居たかったので、運べるならば、血液でも新聞でも何でもよかった。だが、女性ということで30件ほど回ったものの、片っ端から断られて、就活四面楚歌。そんな中、唯一私を受け入れてくれたのが、“日モー”だったのだ。すでに結婚で退社していたものの、仕事のよくできた先輩女性ライダーが2人もいてくれたお陰だった。
高校卒業と同時に当時家族が住んでいた東京都下の東久留米を離れ、恵比寿のアパートに引っ越した。ハスラーで通う就職先の事務所は、銀座から少し離れた下町の新富町。まわりには小さな印刷会社や喫茶店や工場が並び、小さな家族といった感じで、すぐに馴染めた。小さな我が事務所には、3人の男性が配置されていていた。お茶汲みは、なし。
私に支給されたのは、元気のいい2サイクルの名車、ヤマハRD350。当時でも古かったけれど、いろんなバイクに乗れる事は楽しかったし、何より官庁街を走り回ってお金を頂けるというのは、凄いことだった。
朝日新聞社系列の輸送会社だったが、残念ながら記者付きの原稿は運ばせてもらえず、定期便といって20社ほどの報道関係会社に一日3回原稿を運んだり、新聞の紙型※2を朝と晩に印刷会社に運ぶ仕事がメイン。それでもあちこちでプレスライダーと出会って一言掛けてもらったり、「お、女性か。頑張れよ」なんて記者の人に言われると、心の底から嬉しくなった。スポーツ新聞関係の印刷所のおじさん達は、最も好きな人たちだった。インクの臭い漂う部屋に入ると、「ハイハイ、待ってたよ!」と満面の笑みで迎えてくれる。仕事に対する情熱や自信が、波のように伝わってきて、帰り道は鼻歌が出たものだ。
仕事が終わると私は、よく一人でお台場や桟橋に出かけ、いつまでも夜景を眺めていた。フェリーで旅立つ人たち。夜釣りをする人たち。「私はどこへ行きたいのだろう」。
バイクでアフリカへ行く夢は、高校生から持っていた。加曽利隆氏の「アフリカよ」を本屋さんで見つけ、大好きなアフリカとバイクでのツーリングがぴたっと合体。確固たる目標となり、そのための就職であったのだが、具体的には何も決まっていなかった。「3年後くらいにお金が溜まるだろうから、3年間くらい日本一周をしてみよう」。「でもプレスライダーって楽しいから止められるかな」と、うっすら思っていた。
そんな私の背中をどーんと押したのが、「転職失敗事件」だった。まだ就職して7ヶ月しかたっていない18歳の秋のことである。以前は断られたとある大手の新聞社から、「女性でもバイク持ち込みのプレスライダーOK」のお誘いを受けたのだ。配車されたバイクを使っても高い給与を戴けたが、自分のバイクを持ち込むと、その倍近くという世界である。それは、イコール旅の費用が早く溜まる事とあって、私は目がくらんだ。事情を話して、お世話になった会社を辞めさせてもらい、再就職を決心したのだった。
そして初出勤の日、私は一分も仕事をしないうちに雷に打たれることとなった。下請け会社の通された応接室で上司に言われたのは、「本当にすまないが、雇えない。やはり女性は駄目だった」という信じられない言葉だった。頭の中をいろんなことが駆け巡った。「もう元には戻れないだろう」「プレスの道は閉ざされた」。
長いような短いような白昼夢。あの時のことは、実は自分でもよく覚えていない。ただ、目の前に出されたにぎり寿司をすっかり食べ終わる頃には、答えが出ていた。そして立ち去る時には、「はい、ありがとうございます。私、日本一周に行ってきます」と、笑って答えていた。
お金はないが、時間はある。膨大な時間が何よりの贈り物だった。プレスライダーは自分に向いている仕事だったので、3年経っても止められなかったかもしれない。流れて行く日常の中で、日本もアフリカも、もしかしたら夢から外れていたかもしれない。けれど、地球のあちこちへ行くべき定めだったとしたら、あそこはベストタイミングだっただろう。
まさに背水の陣でのスタート。怖くなかったのは、きっとそのお陰に違いない。しかも、まだ旅行が決定する前に「写真を撮らせてください」と声を掛けられていたバイク雑誌の編集部とのご縁で、この「日本一周乙女の独り旅」の連載が実現となった。「私、取材日にはもう旅行に出ているので、すみませんが受けられません」と連絡すると、「そう!? じゃあ、面白いから原稿書いて送って」と応えた編集部の判断は、今更ながらスゴイと思う。私が原稿を書けると思っていたのだろうか。私の夢のひとつにバイクジャーナリストがあることなど、語ったことはなかったのだが。
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