〇 スーパーカブ60周年
「スーパーカブ」というホンダのバイクがある。
郵便局やお蕎麦屋の配達の人が乗っているバイクで、排気量五〇~一一〇cc程度の小さなエンジンを積んでいる街の働き者である。
郵便局やお蕎麦屋の配達の人が乗っているバイクで、排気量五〇~一一〇cc程度の小さなエンジンを積んでいる街の働き者である。
累計生産台数が1億台を超えた日本発の「頼れる足」で、アジア各国や南米でも人気がある「クールジャパン」の代表格の一つだ。
〇 スーパーカブで富士登山
そのカブは、誕生から今年で六十年にあたる。約三十年の愛好家である私は、五年前から参加者を募って「カブで富士山に登ろう」というイベントを毎年続けている。
富士山には五つの登山道があり、五合目までは車やバスで誰でも行くことができるが、小さな「原付バイク」であるカブで行くのはいくつかの試練がある。
まず急勾配のためでスピードが出ない。そのため、後続の車両から邪魔にされたり、オーバーヒートしてしまうこともある。上るにつれて空気が薄くなるため、パワーが落ちて走れないこともあり、「原付で上るのは無理」と言われることもある。
私がカブで富士山に登ろうと思ったのには理由がある。それは今から55年前の1963(昭和38)年8月4日に、カブで3,776mの富士山山頂に立った人がいることを知ったことだった。
その方は山梨県南部町の鍋田進さんという方で、最も険しいといわれる全長四十キロの富士宮ルートを十二時間掛けて走破し、当時の雑誌にも紹介されていたのだった。
私は昔の資料を頼りに鍋田さんを探し、幸運にも5年前に当時のお話を聞く事が出来た。
それによると当時二十二歳だった鍋田さんは、自動車修理の仕事をする傍ら、富士山で強力(ごうりき)の仕事をしていた父親を手伝っていた。そのため富士山は自分の庭のようなものだったらしい。
誰もまだバイクで富士山に登ったことが無いという話を聞いて「なら俺がやってやろう!」と決意して、50ccのカブを自分で改良して最も険しいといわれる登山道を通ることを決めた。
1964(昭和39)年以降は富士山頂に気象観測のための「富士山レーダー」の建設の為、資材運搬用にブルドーザーを使用するために「ブル道」という直線道路が造られた。その道が無い時代は、一般の登山者と同じ道をカブを押したり曳いたり、時には担いだりして苦労しながら上ったのだという話を聞く中で、この「カブの冒険」について広く世間に知ってもらいたいと私は思った。
ちょうど2013(平成25)年で登頂から50年周年にあたることから、7月21日に「スーパーカブ富士登山五十周年ミーティング」と名付けて富士スバルライン(富士吉田口)で五合目までカブで上るイベントとして募集をした。
すると趣旨に賛同したカブ愛好者が五十台以上集まり、鍋田さんも招いてトークショーも行い大盛況の後、皆でカブを連ねて五合目まで走った。
途中で調子が悪くなったカブは、あらかじめ準備した救護車両がメンテするなどの安全面にも配慮し、全車が無事に到達することができた。当初は一回だけで終わる予定であったが、続けて欲しいという要望が多くあり翌年も開催することになった。
〇 偉業を忘れず
しかし、残念な事に鍋田さんは体調を崩されて、翌年の11月に七十三歳で富士山より高い天国に旅立たれた。
私達仲間は、鍋田さんの偉業を顕彰する目的で『鍋田記念・スーパーカブ富士山ヒルクライムラン』と名称を改めて、イベントを継続することにした。
私達仲間は、鍋田さんの偉業を顕彰する目的で『鍋田記念・スーパーカブ富士山ヒルクライムラン』と名称を改めて、イベントを継続することにした。
富士山が世界遺産に登録されたこともあって、登山シーズンは「マイカー規制」の期間が長くなった関係で、8月にはどの登山コースもバイクや車は登れなくなってしまったが、7月や9月の規制前・後で開催している。
山の天候にも左右されることや、勾配の度合いが異なることなど安全に配慮する為に、カブの排気量や運転経験にあわせて、無理なく上れるようにしているため今まで登山中に怪我や事故をして上がれなかった車両はない。
〇 YOUは何しに富士山へ
昨年五月には、アメリカから若い男の参加希望者がインターネットを通じて連絡をしてきたので、彼のサポートを兼ねて少し早い時期に開催したがて大いに盛り上がった。その様子は彼に同行していたテレビ取材チームによって紹介された。
日本一の富士山に、これまた日本を代表するカブでノンビリと上るという企画がいつまで続けられるかはわからないが、カブが電気で動くようになっても続けて行きたいと思っている。
今年の7月1日には須走口からカブ愛好者とともに新五合目のゴールを目指して走る予定があり、まだまだ主催者としての活動が続いていく事になるだろう。
今年の7月1日には須走口からカブ愛好者とともに新五合目のゴールを目指して走る予定があり、まだまだ主催者としての活動が続いていく事になるだろう。
・・・以上、10年前に日本経済新聞に掲載された記事をオマージュして、明日のイベントについて書いてみました。