6月頃に、かなり危ない状態であるとお聞きしておりましたが、ホンダの二代目社長であった
河島喜好(かわしま きよし)さんがお亡くなりになられていたことが公表されました。
河島喜好(かわしま きよし)さんがお亡くなりになられていたことが公表されました。
本田宗一郎さん、藤澤武夫さんから信頼され、「キーちゃん」「オオカワさん」などと呼ばれて
下からも慕われておられたようです。
下からも慕われておられたようです。
N360欠陥車問題では本田宗一郎さんを守り、HY戦争では弟を切ったYAMAHAを
追い込むなど、強い意志も示しました。
追い込むなど、強い意志も示しました。
敬虔なクリスチャンであられたそうです。今頃、天国で本田宗一郎さんと語らっておられるでしょうか。
ご冥福をお祈りします。
ご冥福をお祈りします。
河島さんは1928(昭和3)年2月1日生まれ。
浜松高等工業学校卒後の1947(昭和22)年に現在のホンダの前身である本田技術研究所に入社。
草創期のエンジニアとして、ドリームE型に搭載されたホンダ初の4ストロークエンジンを設計。
(ギヤとエンジンが一体になったエンジンを設計したのは同氏が最初だとか。)
浜松高等工業学校卒後の1947(昭和22)年に現在のホンダの前身である本田技術研究所に入社。
草創期のエンジニアとして、ドリームE型に搭載されたホンダ初の4ストロークエンジンを設計。
(ギヤとエンジンが一体になったエンジンを設計したのは同氏が最初だとか。)
二輪車メーカーとしてのホンダの飛躍を支え、1959(昭和34)年に初参戦したマン島TTレースでは
監督としてチームを牽引し、1961(昭和36)年には1~5位をホンダ車で占めた。
監督としてチームを牽引し、1961(昭和36)年には1~5位をホンダ車で占めた。
1973(昭和48)年には、初代の本田宗一郎社長から社長職を引き継ぎ、集団指導体制による
経営に移行。
社長としてオイルショックに始まる激変の10年を舵取りし、1982(昭和57)年には日本
メーカーとして初の四輪車の米国現地生産を開始するなど、ホンダの売上高を5倍に拡大させた。
経営に移行。
社長としてオイルショックに始まる激変の10年を舵取りし、1982(昭和57)年には日本
メーカーとして初の四輪車の米国現地生産を開始するなど、ホンダの売上高を5倍に拡大させた。
翌年には社長を退任し、取締役最高顧問に就任。1979(昭和54)年にはベルギーでレオポルド
II世勲章コマンドール章を、2007(平成19)年には旭日重光章を受章した。
葬儀は故人の遺志により近親者で執り行われており、後日ホンダとして“お別れの会”を行う予定だという。
II世勲章コマンドール章を、2007(平成19)年には旭日重光章を受章した。
葬儀は故人の遺志により近親者で執り行われており、後日ホンダとして“お別れの会”を行う予定だという。