夏の終わり、街の雑貨店で働く若い女性・さやかは、毎日同じような日々を送っていた。彼女の唯一の楽しみは、店内にある美しいマネキン「優(ゆう)」であった。優は、鮮やかな服をまとい、まるで人間のように見えるほど美しい造形をしていた。さやかは、毎日優に服を着せ替え、話しかけることで心の支えにしていた。

しかし、ある日、さやかは雑貨店を訪れた客から「そのマネキン、ただの道具に過ぎないよ」と冷たく言い放たれた。その言葉が心に刺さり、さやかは優との会話が無意味なものであるかのように感じ始めた。

ある夜、夢の中でさやかは優が動き出し、自分の心の中を覗いていることに気が付いた。優は淡い微笑みを浮かべながら、さやかの孤独と不安を理解してくれている気がした。しかし、目が覚めた瞬間、それが夢であることを思い知らされ、さやかは再び孤独に包まれた。

日が経つにつれ、店の仕事は徐々に忙しくなり、さやかは疲れ果てていった。仕事のストレスと心の不安が重なり、次第に優に話しかけることすら億劫になった。優の存在は、彼女にとってただの物体になってしまった。

そんなある日、さやかは帰り道に居酒屋の前で昔の同級生に偶然出会った。彼女は、同級生が幸せそうに家庭を持ち、楽しそうに笑っている姿を見て、嫉妬と自己嫌悪に苛まれた。彼女自身は一人ぼっちで、誰にも理解されない存在だと思うと、涙がこぼれた。

帰宅後、さやかは優に向かって発作的に叫んだ。「どうして私を助けてくれないの!あなたはただのマネキンなのだから!」その瞬間、さやかは哀しい現実を受け入れた。優がただのマネキンであること、そして、自分自身の孤独から逃げられないことが。

数日後、店舗が経営不振に陥り、雑貨店は閉店することが決まった。売れ残った商品はすべて処分される運命にあり、優もその中に含まれていた。さやかは最後の夜、優に最後のお別れを告げるため、店に戻った。涙を流しながら、「ごめんね、私はあなたを置いていく。さようなら」と呟く。

ところが、心のどこかで優が生きているような気がしてならなかった。無理にその思いを振り払おうとしたが、優の美しさや彼女との思い出が胸に蘇り、再び涙が溢れた。優を捨てて帰ることができず、さやかはそのまま店に留まった。

夜が更け、無人の店内でさやかはひとり優に話しかけ続けた。「私も、私を捨てて行かないで……」彼女の声は、空気に溶け込んでいく。さやかは優が動き出してくれることを夢見ながら、そのまま床で眠りについた。

目が覚めると、店の明かりは消え、全てが静まり返っていた。優の表情は冷たく、かつての温もりは失われていた。さやかは気が付く。優はもう「彼女の心」を受け止めてはくれない。全ての感情を失った彼女は、ただのマネキンのように生きていくしかなかった。

さやかは静かに店を後にした。愛していたはずの存在が、今はただの思い出として彼女の心に留まっていた。そして、それは彼女の孤独の象徴となった。人に触れられることのない愛は、マネキンのように虚しく、冷たく感じられた。

「さやか。聞こえるかい」
「えっ」

振り返ると、優が立っていた。昔のあの淡い微笑みを浮かべてこっちを見つめている。それは、マネキンではできないことだった。首を動かさないといけないからである。

「優なの。動けるの」
「ああ。少しなら動けるんだよ。そして、話すこともできるんだ。でも、君に迷惑をかけたくなくてね」
「何が迷惑よ」

 というと、さやかは涙を流しながら、熱いキッスをした。狂ったように、優の唇を奪った。優もちゃんと動いて堪能してくれていた。さやかは、心の底から幸せな気持ちになった。そう、あの時の温かい気持ちに戻ったのだ。

「生きていたのね。やっぱり、生きていたのね。わかってたの!あたしには、わかっていた。優。あなたは、生きていたんだわ」
「そうだよ。さやか。でも、君に迷惑をかけたくないから、黙っていたんだよ。それが、君にとっての幸せなんだから。でも、我慢ができなかったんだ」
「あたしに幸せなんかないよ。あなたを失ったらあたしの人生には何にも残らないんだから」
「それは、君が子供だからそう思うんだよ。君には、真っ当な人生を歩んでほしいんだ。だから、このまま放っておいてくれ」
「できない。こうして、生きていることを知ってしまったらできっこない」
「そうか。ならば、ならば君も、僕と同じ人生を歩むかい」
「どういうこと?」
「僕もともとは人間だったんだ。でも、あるマネキンに恋をしてしまった。そして、そのマネキンに聞かれたんだよ。「本当にあたしを好きならあんたもマネキンになって」ってね」
「そ、そのマネキンはどうしたの」
「古くなって焼かれたよ。僕は、だから、もう人を恋したくはないんだ。だって、君もマネキンになってしまうんだよ」
「そうなのね。あたし、もし、そいつが生きていたら、八つ裂きにしていたわ」
「やめてくれよ。悪い冗談だな」
「あたしもなるもん。マネキンになるもの。そして、あなたの恋を真正面から受け止めるっ」
「いいのか。本当に」
「構わないわっ。神様。お願いします」

   翌日、取り壊し間際の雑貨店には、男女のマネキンが転がっているのであった。太った天然パーマで髭もじゃの店主は、頭を抱えていた。そして、マネキンが二体に増えていることに気づいた。だが、本当に彼にとってはそんなことはどうでも良いことだった。そんなことよりも明日の生活のやりくりのことを考えていたのだった。

「旦那さん。これ、どうしたんでしょうかね。増えてますね」

  解体会社の男はハンマーを手にして店主の後ろに立っていた。店主は首を振って肩をすくめる。

「よくわからんが、二つとも潰してくれ」
「あいよ。わっかりやしたっ!」

   解体会社の職人は、ハンマーを高く振り上げると、鋭く振り下ろしたのであった。男女のマネキンの身体が粉々になってゆく。雑貨店を閉店した店主は、その姿を虚な目をして見つめていた。