自分はオショー・ラジニーシ本が好きだから、「仏教3・0を哲学する」を読んですぐにわかった。

 以下のようになっている。
 

(⇩  大我は別々にしてしかもみんな繋がっている)


 詳しくは、前の日記を読もう。


 ここでいうと、ハイデガーの存在と時間は、<比較できない今と私>を扱っている。


 カントの超越論的理論は、大我青空の私を扱っている。超越者(論がないことに注意)は、小我が全てに超越していると思っている、(?)自然主義者は、客観しかないと思っている。ただし、カントは、道徳と合致しないと自由意志はないと思っている、


   ニーチェは、主に大我のことを言っている。これと神を対置している。(だから狂った)


 カフカは、反対に小我と歪んだ映画しかない世界を描いている。映画だから、必然的にバッドエンドになる。


 西田幾多郎は、大我(絶対的自己矛盾同一性)と小我との関係性(場)と、一般的にどう開けるか(善)を追求している。