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1181年4月7日 頼朝寝所の警固者が選ばれる(1)

1181年4月7日 頼朝寝所の警固者が選ばれる(2)

に登場した

源頼朝の寝所の警固者の

横顔についてです。

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今回は千葉胤正について。

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千葉胤正

(ちば・の・たねまさ):

1141(永治元)年4月1日生まれ。

下総国の大族千葉氏の後継者。

父は千葉介常胤。

弟に相馬師常・武石胤成・

大須賀胤信・国分胤道・

東胤頼(とう・の・たねより)、

子に千葉成胤・境常秀がいる。

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現在の千葉県千葉市を中心に

下総国一帯に勢力を振るった。

通称は千葉太郎(ちば・の・たろう)。

後に下総国の次官

─実質的には責任者の地位─

である下総介(しもふさ・の・すけ)を

父から受け継ぎ、

千葉介(ちば・の・すけ)を

名乗ることとなる。

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1180(治承4)年5月26日、

平家打倒を掲げて挙兵した

後白河法皇の第三子

以仁王(もちひとおう)と源頼政は

宇治平等院で平家方と戦い、

命を落とした。

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これより先、

4月27日に

以仁王から

平家を討てとの令旨(りょうじ)を

受け取っていた源頼朝は、

挙兵を決意する。

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6月27日、

京都大番役を終えて

自分の領地に戻って来た

三浦義澄と

千葉胤頼─胤正の末弟─は、

途中、

頼朝の配所のあった

伊豆国の蛭ケ小島(ひるがこじま)に

立ち寄り、

長い時間密談を交わしたという。

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8月23日に

石橋山の戦で敗れ、

海路安房国

─現在の千葉県南端部─に

逃れた頼朝は、

9月4日、

側近の安達盛長を

千葉に遣(つか)わして

千葉一族の参陣を求めた。
安達盛長

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この時、

千葉氏の当主は常胤だったが、
千葉常胤

長男の胤正と六男の胤頼が

頼朝に味方すべきことを

熱心に説いたため、

ついに常胤も決断し、

頼朝を迎えにあがるとの意を

告げた。

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安達盛長は、

9月9日に頼朝のもとに戻り、

その旨を復命している。

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9月13日には、

胤正の弟胤頼と

胤正の長男成胤(しげたね)とが

下総国の目代を滅ぼし、

14日には成胤が

同国内の有力者

千田親政(ちだ・の・ちかまさ)を

生け捕っている。

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そして9月17日、

頼朝が安房から北上して来ると、

千葉氏は一族をあげて

頼朝を迎えに出た。

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10月3日には、

一旦頼朝に降ったものの、

異心を抱いて

上総国に帰っていた

伊北常仲(いほう・の・つねなか)を、

父常胤の命によって

胤正が討ち滅ぼしている。

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12月12日、

頼朝が

鎌倉の大倉御所に入る際には、

一族と共に

頼朝に供奉(ぐぶ)している。

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このような功績から、

胤正は

千葉家の後継者として

一族を代表して

頼朝側近の列に

加わったのである。

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