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前々回・前回の記事で
見たように、
『吾妻鏡(あずまかがみ)』
治承4年9月15日の
条(くだり)には、
信濃の
親平家方の豪族を掃討した
武田一族が
「甲斐国逸見山(へみやま)に
宿した」
という記載がある。
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その逸見山だが
現在の山梨県(甲斐国)内には
そのような呼称はない。
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しかし
『甲斐叢記(かいそうき)』
という書物には
山梨県
北杜(ほくと)市大泉町にある
谷戸(やと)城址一帯の山を
「又逸見山とも云(い)ふ」
との記述がある。
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山梨県北杜市にある谷戸城址。
『吾妻鏡』に出てくる逸見山は
ここではないかと
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この城山の西には
逸見神社がある。
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谷戸(やと)城は
八ヶ岳南麓の
裾野上に盛り上がった
標高862mの茶臼山にあり、
甲斐源氏の祖
逸見冠者清光
(へみ・の・かんじゃ・きよみつ)の
居城と伝えられている。
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逸見清光は、
源義家の弟である
新羅三郎義光
(しんら・さぶろう・よしみつ)の
孫である。
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清光の父源義清は
常陸国那珂郡武田郷
─現在の
茨城県ひたちなか市武田─
の支配を任され、
その土地の名を取って
「武田冠者
(たけだ・の・かんじゃ)」
と名乗ったが、
同国内に強力な勢力を誇る
大掾氏(だいじょううじ)と争い、
1130(大治5)年、
子の清光と共に
濫行(らんぎょう)によって
常陸国司に訴えられた
(『長秋記』)。
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そして甲斐国八代郡市河荘
─現在の
山梨県西八代郡市川三郷町─
へ流されたという
(『尊卑分脉
(そんぴぶんみゃく)』)。
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義清・清光父子は
平塩岡に館を構え、
義清は市河荘の荘官として
勢力を扶植し、
一方の清光は
逸見荘─現在の北杜市─へ
力を伸ばし
逸見冠者と称した。
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http://www.yamanashi.bc.jrc.or.jp/schedule/naka_seibu.php
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ちなみに、
義清の兄義業(よしなり)は
常陸国に土着して
佐竹氏の祖となっている。
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