1169(嘉応元)年


12月23日

延暦寺大衆(だいしゅ)、

入洛する(嘉応の強訴)。

この日、

延暦寺の大衆が

入洛(じゅらく)するとの

報を受けた

後白河法皇は、


院御所(いんのごしょ)である

法住寺に

公卿を召集して

対策を協議。


同時に

検非違使・武士に

動員令を下して

御所の警備を

強化した。


平重盛(清盛の長男)200騎、

平宗盛(清盛の三男)130騎、

平頼盛(清盛の弟)150騎が

集まり、

「その数、雲霞(うんか)の如し」

(『兵範記』)
「帯箭の輩、院中に満つ」

(『玉葉 』)。


平時忠

(清盛の妻・時子の同母弟)も

検非違使別当として

院御所と

洛中の警備に当たった。


それに対し、

延暦寺大衆は

院御所ではなく、

高倉天皇・摂政藤原基房の居る

内裏(だいり)へ向かい、


神輿(しんよ)八基を担いで

待賢門・陽明門の前で

騒ぎ立てた。


内裏は

修明門を平経正・源重定、

待賢門を平経盛、

建春門を源頼政が

警護していたが、

兵力は少なかった。


大衆は

内裏に乱入すると、

建礼門・建春門に

神輿を据えて

気勢を挙げた。


後白河法皇は

蔵人頭・平信範、

蔵人・吉田経房を

内裏に遣わし、


「内裏に集まって

幼主(高倉天皇)を

驚かせ奉るのは

不当であり、

院御所に来れば

要求を聞く」


と再三にわたって

伝言するが、


大衆は

「幼主であっても

内裏に参って

帝(みかど)に訴え、

勅定(ちょくじょう)を承るのが

先例・恒例(ごうれい)である」


と拒否、

内裏に居た

天台座主・明雲の説得にも

耳を貸さなかった。


検非違使別当・平時忠は

後白河法皇に


「(延暦寺大衆が、こちらの)

要求を聞き入れるなら

速やかに

(彼らの訴えを)受諾し、

聞き入れないのなら

武士を派遣して

大衆を追い払うべきだ」


と進言。

夜に入って

公卿議定が開かれた。


内大臣・源雅通は


「武士を派遣すれば

神輿が壊される恐れがある」


と難色を示し、


平重盛も

後白河法皇からの

三度にわたる

出動命令に対し、


「明朝発向する」


と答えて

出陣を引き延ばした。


強訴を

武力で鎮圧することを

諦めた

後白河法皇は

政友の解官・禁獄のみを

認めることで

事態の収拾を図ったが、


大衆は

あくまで

藤原成親の配流(はいる)を

求めて譲らず、


使者となった

座主の明雲らを追い返し

神輿を放置して

分散してしまった。