小林多喜二の「蟹工船」! | とんとん・にっき

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来るもの拒まず去る者追わず、
日々、駄文を重ねております。

小林多喜二著「蟹工船」新潮文庫
昭和28年6月28日発行
平成15年6月25日91刷改版
平成21年6月15日120刷

 

SABUの映画「蟹工船」を観た後か、ノーマ・フィールドの「小林多喜二」を読んだ後か、とりあえず「蟹工船」をちゃんと読んでおかなくちゃと思い、購入して読みました。ただ、いつブログに載せるかで思い悩み、そのままになっていました。

 

僕が小林多喜二を知ったのは、たぶん、以下の文章からです。

「毎朝きまって、その頃、小柄な、顔色の蒼い商業学校の生徒が、肩から斜めに下げたズックの鞄を後ろの腰の辺りへのせるように、少し前屈みになり、中学生の群れをさかのぼる一匹の魚のように、向こうから歩いてきた」。「いつも何となくナマイキな顔をしていた。この港町は、商業地なので、後で出来た商業学校の方が受験率が高かった。中学校の受験者が採用人員の三倍ある時、商業学校は三倍半ある、という程度に、少しずつ商業学校の方が難しいので、商業学校の生徒は中学生よりもイバる傾向があった。あいつはそれで少しナマイキな顔をしているのだ、と私は思った」、そして「しかしその少年は、何となく風采が上がらず、貧弱で、いつも疲れたような顔をし、かばんを後ろに背負って、配達夫のようにセッセと歩いた」。

 

上の部分は、伊藤整の「若い詩人の肖像」からの引用です。小林多喜二より一年下の伊藤整は、大正6年に小樽中学の生徒となります。その頃伊藤整は、「中央文学」という投稿雑誌に、しばしば当選して掲載される作品の著者が小樽在住の、毎朝登校のときにすれ違うあのナマイキな顔をした小林多喜二であることを知ります。

 

今回、朝日新聞の「古典百名山」で平田オリザが、小林多喜二の「蟹工船」を取り上げたので、これ幸いにと、併せて載せることにしました。

 

平田オリザの「蟹工船」は、以下のようにあります。

本作では、北洋の蟹漁の船内の過酷な労働と、その労働者たちが団結に目覚める過程が、生き生きとした描写で描かれる。東北の農家の次男、三男を中心に北日本の食い詰め者たちが、目先の賃金に吸い寄せられるように集められ、北の海の地獄へと送り出される。命の値段は水に漂う木の葉のように安く、人々はあっけなく死んでいく。

 

僕が最初に小林多喜二の「蟹工船」を読んだのは、現代日本文学館「葉山嘉樹・小林多喜二」、昭和44年(1969)6月1日第1刷です。今から50年も前のことです。小林多喜二年譜に、以下のようにあります。

 

昭和8年(1933)、同年20日、正午すぎ赤坂区福吉町で連絡していたところを築地警察署特高係に逮捕され、築地署に連行された。警視庁の特高で小林を追求してきた中川、山口、須田らの手によって拷問が加えられ、同日午後7時45分に絶命。検察側は死因を心臓麻痺と発表し、遺族や友人たちが解剖しようとしたのを妨害し、22日の通夜、23日の告別式参会者を総検束した。

 

ちょうど1年ほど前、仲間との街歩きです。

「隅田川を遡る散歩」第1回

最初に築地警察署とその裏通りの前田病院からスタートです。

あの「蟹工船」の著者小林多喜二が拷問の上虐殺され、運び込まれたのがすぐそばの前田病院だったとか。1933年2月20日19時45分、心臓麻痺によって死亡したと警察から発表された小林多喜二の遺体は、全身が拷問によって異常に腫れ上がり、特に下半身は内出血によりどす黒く腫れ上がっていたと言う。

病院の前で固まっている集団に不審に思ったのか、前田病院の院長先生が出てきて、自分は高校生だったがと、思い出話をしてくれました。

 

もうひとつ、どうしても思い出せないのですが、ある文学者が銀座か築地のバーで飲んでいる時、築地警察署の警察官が数人で来て、いま小林多喜二が死んだという情報をもたらしたという。僕は野坂昭如の「文壇」(文芸春秋:2002年4月25日第1刷発行)というエッセイだったと思っていたのですが、どうも時代的に合わない。この小説家が誰で、何というエッセイだったのか、知りたいとずっと思っているのですが、調べようがありません。

 

朝日新聞:2021年3月20日

 

過去の関連記事:

脚本・監督:SABUの「蟹工船」を観た!
ノーマ・フィールドの「小林多喜二―21世紀にどう読むか」を読んだ!

 

「小林多喜二―21世紀にどう読むか」

岩波新書

著者:ノーマ・フィールド

2009年1月20日第1刷発行