『不思議な形の劇場の秘密!村野藤吾『日生劇場』×南果歩』 | とんとん・にっき

とんとん・にっき

来るもの拒まず去る者追わず、
日々、駄文を重ねております。

「新美の巨人たち」  2020年9月26日(土)

『不思議な形の劇場の秘密! 村野藤吾『日生劇場』×南果歩』 2020年9月26日(土)  22:00~22:30 テレビ東京

https://kakaku.com/tv/channel=12/programID=91951/episodeID=1402948/

 


村野藤吾の「日生劇場」、今から57年前の建築です。一般にはあまり知られていないんじゃないかと思い、テレビで放映していたのを機会に、その建築の概要を載せてみました。もちろん、越路吹雪とか、あるいは市村正親/鹿賀丈史の「生きる」など、ミュージカルのファンの方はご存じかと思いますが、村野藤吾がどういう人物なのか、知っておくのもよろしいかと思いまして…。僕は、かなり前ですが、市川染五郎と草笛光子の「ラ・マンチャの男」を観たことがあります。半分は日生劇場の建築を見に行くためでしたが、1970年代の初め頃だったと思います。

 

以下、「新美の巨人たち」のホームページによる

 

日生劇場

今日の作品は、村野藤吾作・日生劇場。1963年竣工。今見ても斬新で、なぜこんなカタチをしているのか?
全体が村野藤吾の設計で、日本生命70周年記念事業として、5年かけて1963年9月に竣工。外壁には万成石が使われ、エントランスをくぐると吹き抜けの巨大な空間が。受付やホワイエなどの造形を紹介した。
日生劇場の内部を紹介。最大の特徴は天井。2万枚の貝を手作業で貼り付けて模様を作った。あらゆるものが曲線で、包み込まれるような心地よさがある。
村野藤吾は明治24年に佐賀県唐津市で生まれる。早稲田大学を卒業後、渡辺節建築事務所に入り、綿業会館の設計に携わった。こまかいところまでゆるがせにしないという建築思想が、日生劇場にも貫かれている。日生劇場ではあらゆる場所に尋常でないこだわりがある。
大阪駅前の梅田吸気塔は地下街に空気を送る設備だが、現代アートのモニュメントのような造形で、「ブラック・ジャック」にも描かれた。日生劇場の内部空間も村野ワールドの造形作品。世界のどこにもない劇場をという反骨精神が村野を突き動かしていた。

 

 

 

 

 

日本生命日比谷ビル

全体が村野藤吾の設計で、日本生命70周年記念事業として、5年かけて1963年9月に竣工。外壁には万成石が使われ、エントランスをくぐると吹き抜けの巨大な空間が。

 

 

 

 

 

 

 

 

渡辺節建築事務所

村野藤吾は明治24年に佐賀県唐津市で生まれる。早稲田大学を卒業後、渡辺節建築事務所に入り、綿業会館の設計に携わった。こまかいところまでゆるがせにしないという建築思想が、日生劇場にも貫かれている。日生劇場ではあらゆる場所に尋常でないこだわりがある。

 

 

 

大阪駅

大阪駅前の梅田吸気塔は地下街に空気を送る設備だが、現代アートのモニュメントのような造形で、「ブラック・ジャック」にも描かれた。日生劇場の内部空間も村野ワールドの造形作品。世界のどこにもない劇場をという反骨精神が村野を突き動かしていた。

 

 

読売会館

有楽町の読売会館は村野藤吾の作品。その7階にはよみうりホールがあり、日生劇場の原型ともいえる。今では有楽町駅前のシンボルだが、建設当時は大批判を浴びた。同年、隣の敷地に丹下健三設計の旧東京都庁舎が建設され、コルビュジエの流れをくむモダニズム建築と比較された。公共建築の方が上で商業建築は下、東京が上で大阪が下といった構図も重なったという。

 

 

 

 


日本生命日比谷ビル
読売会館竣工の翌年、村野藤吾が日本生命日比谷ビルの設計者に決定。1階にはコルビュジエ由来のピロティを設け、デザイン、素材、機能にこだわり抜いて作り上げた。中でも特徴的なのは貝殻を貼り付けた天井。読売会館の時点で構想していたという。こうして誰も見たことのない劇場が完成。日本建築学会賞を受賞した。その後、村野の表現はより自由になる。

 

 

グランドプリンスホテル新高輪

村野藤吾の最晩年の傑作は、グランドプリンスホテル新高輪。竣工時91歳。大宴会場の天井は日生劇場と同じように貝殻で埋め尽くした。その数およそ30万枚。松隈洋教授は、母胎回帰していくような心地よさがあると話した。村野は生まれてすぐ乳母に預けられ、12歳まで両親と離れて暮らした。その孤独が人を包み込む建築につながったという。

 

 

村野藤吾(1891-1984)

佐賀県生まれ。1918年早稲田大学建築学科卒業。渡辺建築事務所を経て、1929年村野建築事務所開設。1949年村野・森建築事務所に改称。1955年日本芸術院会員。1967年文化勲章受章。日本建築学会賞ほか受賞多数。村野はモダニズムの洗礼を受けながらも、様々な技を駆使して、実に豊かな建築作品を生み出し続けた。生涯在野の建築家として過ごし、住宅や商業施設、オフィスビルといった民間の建築作品が多かったことから、同時代に東大教授を務め、公共的な建築作品を多数遺した丹下健三とよく比較された。その対比は一つの見方であるが、それによって見落とされる村野の像や可能性も大きい。

「現代建築家99」より