赤星兄弟とレーモンド事務所 | とんとん・にっき

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「旧赤星鉄馬邸」玄関前
設計:アントニン・レーモンド

 

2月12日の朝日新聞に、以下のような記事が載っていました。旧赤星鉄馬邸は建築家仲間ではよく知られた住宅で、あの手この手で見学しようと躍起になっていた建築です。

 

朝日新聞:2020年2月12日

実業家・赤星鉄馬の旧邸  武蔵野市が取得へ

 

旧赤星鉄馬邸見学案内

https://meet-musashino.tokyo/cms/wp-content/uploads/2019/11/former_akahoshi_house1911.pdf

 

パナソニック汐留美術館で開催されている「モダンデザインが結ぶ暮らしの夢展」を観たら、赤星喜介邸と赤星四郎別邸が、同じレーモンドの設計ということで、写真や図面、そして椅子などの実作が展示されていました。そこで疑問が沸いてきました。赤星鉄馬とこの2人はどういう関係なのか?レーモンドとはどういう関係なのか?

 

「モダンデザインが結ぶ暮らしの夢」図録より

上:赤星喜介邸内観1931

下:赤星四郎別邸断面図1931

 

赤星四郎別邸家具図1931

赤星四郎別邸家具図1931

 

赤星四郎別邸椅子(デザイン:ノエミ・レーモンド)1931

赤星四郎別邸机(デザイン:ノエミ・レーモンド)1931

赤星四郎別邸椅子(デザイン:ノエミ・レーモンド)1931

 
ネットで検索したら、以下のような記事が見つかりました。
赤星鉄馬、赤星喜介、赤星四郎、3人の名前が出てきます。それぞれの住宅などをレーモンド事務所が設計を行っていました。調べてみると、赤星弥之助、妻=靜との間に生まれた3人の兄弟でした。少々煩雑ですが、以下、全文を載せておきます。
 
藤澤カントリー倶樂部と赤星兄弟
藤澤カントリー倶樂部
 1932(昭和7)年5月29日、相模野台地の南端にゴルフ場《藤澤カントリー倶樂部》がオープンした。
 前々年に設立された藤澤ゴルフ株式會社(資本金50万円)が株主のみを会員として建設した。コース設計は石井光次郎、堀米庸之介、田中善三郎、赤星四郎、クラブハウスはアントニン・レーモンド設計という本格的なもので、後に女性専用の《メリーゴルフ倶樂部》が一時期併設された。
 藤澤カントリー倶樂部が発足した時代は、世界恐慌に発する《昭和恐慌》の波に日本が呑み込まれた頃だが、不況対策の一環で設立されたという側面も持つ。事実、鵠沼地区の農家の青年にキャディーやコース整備などの働き口を与えることとなったという。
 この地の一角には藤澤町の火葬場があった。ゴルフ場設置に伴い、火葬場を町の東端の西富に移設することになった。施設そのものが老朽化していたため、いずれにせよ建て替える必要はあった。ところが地元や隣接する鎌倉郡大正村の住民が猛反対運動を起こした。この間の事情については第0299話で若干触れておいた。
 藤澤カントリー倶樂部の命は10年余りと短かったが、東久邇宮稔彦王、岩崎小彌太、近衛文麿、大佛次郎、鈴木三郎助などがプレーし、日本有数のチャンピオンコースでもあった。
 太平洋戦争に突入すると、全国のゴルフ場は全て閉鎖され、多くは農業用地に転換された。藤澤カントリー倶樂部の場合は1943(昭和18)年に閉鎖され、同地周辺が横須賀海軍航空隊の基地となり、翌年藤澤海軍航空隊が置かれ、南部は海軍藤澤飛行場となり、クラブハウスは司令部として用いられた。
 戦後、かなりのゴルフ場は復旧するが、藤澤カントリー倶樂部の場合は海軍藤澤飛行場は東洋航空藤沢飛行場として利用され、その他は《神奈川県立教育センター(現総合教育センター)》、《神奈川県立体育センター》、《藤沢商業高等学校(現藤沢翔陵高等学校)》、《聖園女学院》などの文教地区となった。旧クラブハウスは《グリーンハウス》と呼ばれ、体育センターの合宿所として利用されてきたが、現在は一部が食堂となっている。戦前のアントニン・レーモンド設計のクラブハウスは4か所あったというが、現存するのは藤沢のみである。文化財としての指定が望まれているが、現在までのところ指定はない。
 
赤星兄弟
 鹿児島の旧郷士出身の実業家、赤星弥之助は、先ず神戸港の築港工事を引き受けて大金を得た。次いで薩摩藩の海軍御用掛となり、日清戦争後は英国に発注した軍艦に取りつける銃器全般のアームストロング社(本社マンチェスター)の代理店・鉄砲商を営み、巨万の財をなした。その金で古美術を買い占めて、薩摩人には珍しく蓄財した。
 赤星弥之助は、妻=靜との間に以下の六男六女をもうけた。
長男:鉄馬(1883-1951)=ペンシルベニア州立大卒。大正銀行頭取
次男:兵造(早世)
三男:喜介=プリンストン大学卒。
四男:四郎(1895-1971)=ペンシルベニア州立大学卒。スタンダード石油→ゴルフコース設計家。鵠沼在住
五男:五郎=彼のみが留学しなかった。大正火災副社長。鵠沼在住
六男:六郎(1901-1944)=プリンストン大学卒。ゴルフコース設計家。
長女:シマ
次女:てる
三女:トヨ
四女:房子
五女:フミ
六女:スエ
 次男=兵造は早世したが、残りの男子5人はそれぞれ各方面で活躍し、名を残している。五郎以外の4人はハイスクール時代から米国留学の経験を持ち、スポーツマンだった。喜介と四郎は在米時代はアメリカンフットボールの選手だったし、兄弟揃ってゴルフとスポーツフィッシングが共通の趣味だった。
 ことに六郎は日本ゴルフ史に燦然と輝く記録を残している。在米時代の1924(大正13)年、ノースカロライナ州パインハーストCCで開かれたスプリングス・トーナメントで優勝しているが、これが海外の大会で日本人が優勝した最初の記録である。帰国後の1926(大正15)年、程ヶ谷カントリー倶楽部で行われた日本アマチュア選手権では兄の四郎が優勝、弟の六郎が2位と兄弟でワンツーフィニッシュを飾った。翌年の1927(昭和2)年5月28日、第1回全日本オープン・ゴルフ選手権大会が横浜の程ヶ谷カントリー倶楽部で開催された。このとき参加者は、アマ12人、プロ5人。アマの赤星六郎は2位の鶴見プロに10打差で優勝した。
 赤星弥之助は、1904(明治37)年頃、大磯の東小磯425外地籍約一万坪に《赤星御殿》と噂される別荘を構えた。門を入ると広い砂利道を囲んで植え込みがあり山の麓にある洋館の玄関に続く、ジョサイヤ・コンドル設計である。残念なことに、今その面影は感じられない。古美術の収集家で井上馨、田中光顕(あき)らと五指に数えられた。
 赤星家は東京神楽坂にあったが、以来神奈川県とも様々な関係が生まれる。例えば、
平塚市美術館のコレクションに黒田清輝『赤星弥之助像』(油彩)と安田靫彦:『赤星母堂像』(日本画)がある。※赤星母堂とは赤星鉄馬の母=赤星弥之助の妻=靜のことで、晩年は大磯別荘に暮らしたらしい。同じく大磯在住の安田靫彦が描いたもの
1925(大正14)年、赤星鉄馬は芦ノ湖へブラックバスを移入した
1931(昭和6)年、赤星六郎は相模カンツリー倶楽部(大和)の設計を担当した
1932(昭和7)年の藤澤カントリー倶樂部を手始めに、赤星四郎は県内では箱根カントリー倶楽部(1954)、本厚木カンツリークラブ(1962)、葉山国際カンツリー倶楽部(1963)の設計を担当した
赤星四郎と赤星五郎は、戦後鵠沼に在住し、鵠沼で没した
赤星六郎は、二宮に自宅を建てた
 赤星家は邸宅の設計に凝るようで、赤星弥之助大磯別邸(1907)と赤星鉄馬邸(1912)東京・赤坂台町はジョサイア・コンドル(1852-1920英国人建築家)、赤星四郎別邸(1931)藤沢、赤星喜介邸(1932)高輪、赤星鉄馬邸(1934)東京・吉祥寺赤星六郎邸(1934)二宮はアントニン・レーモンド(1888-1975チェコ出身建築家。ライトの助手)という錚々たる建築家に設計を依頼している。藤澤カントリー倶樂部のクラブハウスがレーモンドの設計になるのは、当然赤星四郎の口利きがあってのことと思われる。

鵠沼とのゆかり
 赤星四郎は、藤澤カントリー倶樂部の設計担当段階の1931(昭和6)年から、その一角にレーモンド設計の別荘を構えた。海軍摂取時にその建物を鵠沼桜が岡三丁目の熊倉通り沿いに移築して居住し、1971(昭和46)年5月5日、鵠沼の自宅で没した。
 赤星五郎については、大正火災副社長(千代田火災)だったということしか調べがついていない。生没年月日も不明である。鵠沼藤が谷に自宅を構え、この地で没した。