「岸記念体育会館」の設計について! | とんとん・にっき

とんとん・にっき

来るもの拒まず去る者追わず、
日々、駄文を重ねております。

朝日新聞:2019年5月17日

 

2019年5月17日に朝日新聞に、「岸記念体育会館 解体へ」という、写真入りの記事が出ていました。記事は、「モスクワボイコットの舞台 終幕」として、ソ連によるアフガニスタン侵攻で、日本政府はモスクワ五輪不参加を決め、関係者の嘆きなどに重きを置く記事となっていました。いずれにせよ、老朽化した岸記念体育会館から日本オリンピック委員会や日本スポーツ協会などの事務局が、新しくできた「ジャパン・スポーツ・オリンピック・スクエア」に移転入居するというもの、つまり「スポーツ界の拠点交代」となるというものです。

 

さて、この解体される「岸記念体育会館」、今まで幾度となく様々なスポーツ界の出来事の背景として、報道などに映し出されてきました。名称は、2代目体育協会会長で貴族院議員でもあった岸清一氏に由来。もともとは岸氏の遺志を受けた寄付によって1941年に、JR御茶ノ水近くに完成した建物から、64年、東京五輪の開催を機に現在の場所に移転したというもの。

 

あまり知られていませんが、この建物を設計したのは「松田平田設計」という組織的な設計事務所です。アメリカにはよくあるようですが、松田軍平(1894-1981)と平田重雄(1906-1987)のふたりの名前を冠した設計事務所です。二人ともコーネル大学卒業の先輩後輩の間柄です。

「松田平田設計」

https://www.mhs.co.jp/

 

「三井銀行旧本店」(昭和6年)は、松田軍平がアメリカで設計に従事(トローブリッヂ・リビングストン)、設計図を持ち帰り、日本で監理にあたった作品です。この監理の仕事を終えた後、アメリカの設計事務所を辞して、日本で「松田事務所」を創設、そこにコーネル大学の後輩の平田重雄が入所したというわけです。

 

有名なものとしては「日本銀行本店」(1973年)が挙げられます。辰野金吾が設計した旧本館の後ろにある高層の建物で、よくテレビなどに取り上げられます。

 

テレビに取り上げられるといえば、「ニュー新橋ビル」(1971年)があります。建物が取り上げられるのではなく、インタビューなどの背景としてですが…。この建物も取り壊しの話が出ているようです。

 

鈴木博之「邸宅建築からの出発」

(『松田平田設計:草創と継承』より)
・松田軍平が「建築事務所を開設したのは1931年(昭和6)9月のことであった。・・・三井高修別邸(下田)と石橋徳次郎邸(久留米)の設計を依頼されたことが直接の契機であったという。「一週間経つか経たぬ或る日のこと、痩せ形でスマートな青年が訪ねてきた。私の卒業したコーネル大学の後輩で前に一度会ったと記憶する。『日本の既成の規則だった事務所で働くのは窮屈だから、無給でいいから、私の事務所(未だ形ができていない)で働いてみたい』との申し入れがあった。・・・」・・・平田重雄であった。
・翌日、製図台の上に久留米の石橋徳次郎邸の平面図が載っていて、「君、このプランにスパニッシュスタイルのエレベーションをスケッチしてごらん」といわれました。」(平田重雄による弔辞の中の言葉)
・この石橋邸と下田の 三井別邸は、ともに現存し、スパニッシュスタイルと呼ばれる、瀟洒な様式によるものである。スパニッシュ様式とは、文字どおりにはスペイン風の建築様式であるが、サンタフェ・スタイルという言葉がある通り、これはアメリカ経由のスペイン様式と考えたほうがよい。因みにサンタフェは現在のニューメキシコ州の都市であり、かつてスペインが北米大陸に植民地を形成していた時代の首都であった。ここは、植民地を形成した1610年から、米西戦争の勝利によってアメリカがスペイン植民地を奪取する1848年まで、スペイン文化圏であった。
・「日本に帰ってまさかスパニッシュスタイルをやらされるとは思わなかった(笑声)。だから、はじめてスパニッシュとか、ああいうスタイル、伝統的なものを勉強したのは事務所の仕事をやり出してからだったですね。アメリカから参考書を取り寄せて一生懸命首っ引きで原寸を画いたことを覚えています。大体僕としてはそういうものにあまり興味をもたなかったんですね。しかしアメリカの当時の様式として実際に建てられているのはああいう建物ばかりだったんですよ。」(平田重雄回想録)

目黒・Villa Le Mais(平田重雄自邸)を見学した!

 

「三井高修邸別荘」伊豆、(昭和6年)

 

「石橋徳次郎邸」久留米、昭和8年

 

話は脱線しましたが、本題の戻すと、「岸記念体育会館」は、「岸氏の遺志を受けた寄付によって1941年にJR御茶ノ水駅近くに完成した」というもの。

 

この木造の建物を設計したのが、昭和13年に前川国男の事務所に入所した丹下健三でした。「彼がチーフとして担当した岸記念館は、前川国男というよりも、丹下健三の作品とみた方が真実に近い」と、前川事務所の事情に詳しい浜口隆一は語っています。前川は丹下の構想に必ずしも賛成でなく、、首をひねっていたという。「丹下君、きみがどうしても好きというならやってご覧」というような具合だったという。岸記念体育会館は1940年に完成します。

 

この流れを受け継いだのが、新宿のやはり木造の「紀伊国屋書店」(1946年)であることは言うまでもありません。丹下健三は、やがて前川事務所から離れて東大研究室へ行き、都市計画の勉強を始めることになります。