森本公誠の「東大寺のなりたち」(岩波新書:2018年6月20日第1刷発行)を読みました。
たんなるボヤキですが、以前、伊藤ていじの「重源」(新潮社:1994年)という本をもっていました。もちろん読みましたが、なんかの拍子にこの大事な本をブックオフに売っちゃったようで、今から思うと残念なことをしてしまいました。今は絶版になっていて、購入できません。「重源」は、伊藤ていじが初めて書いた大評伝です。最初にして、おそらくは最後の評伝が俊乗房重源でした。あの松岡正剛が、次のように言います。「著者の伊藤ていじさんは、ぼくが最も尊敬する建築史家であり、民家研究者であって、また日本の空間文化を最初に海外に英語で伝えた人である」と。
本のカバー裏には、以下のようにあります。
華厳宗大本山東大寺。聖武天皇の発願に始まるこの寺院は、古来どのような存在意義を有してきたのか。入寺から約70年。東大寺長老である著者は、その問いかけの答えを創建時代の歴史に求めてゆく。朝廷内の政争と陰に陽に絡みながらも、救済の寺としての道を歩んだ東大寺のなりたちを解き明かす。
筆者は東大寺に入寺して来年で70年を迎える。その間、日本はどのような歴史を歩んできたのか、同世代の人にとってはさまざまな思いがあるかもしれない。筆者の脳裏に常にあったのは、東大寺は現代社会においてどのような存在意義があるのかという問いかけであった。むろん未来への志向が前提となる。この点、ここしばらくのところ、東大寺のなりたちを知ることにこそ答えの一端があるのではという思いが強くなった。(「はじめに」より)
クライマックスは、第6章ですが、「大仏の頭部落ちる」です。
天皇家による政治的圧力で頭の痛かった東大寺当局者に、重ねて憂慮すべき事態が起こりつつあった。それは大仏の仏体に亀裂の跡が見られはじめたことである。もっとも顕著なのは臀部あたりで、酒人内親王が亡くなった頃の記録では、亀裂は4メートル以上に及び、そのため像高が20数センチも沈んだ。また面相はやや西に傾いでいた。そうしたところに地震が発生した。斉衡2年(855)4月2日、5月10日、翌11日と続いた。5月23日、大仏の首筋の亀裂が広がり、頭部がゆっくりと傾き、ついに落下してしまった。
大仏の損傷状況を実地検分させると、仏頭は新造もやむなしと思えるほど大破していた。新造するか修理するか、なかなか方針が定まらないところに、右京出身の忌部(斎部)文山なる者が提案した修理計画が採用された。それは轆轤(ろくろ)の技術を駆使し、雲梯(うんてい)を巧みに組み合わせて落ちた仏頭を断頭に引き上げ、大仏の頸部の鎔鋳して、新造のようにするというものであった。・・・修理事業は順調に進み、貞観3年(861)3月14日に大仏開眼供養会が営まれることになった。
「第6章 新たな天皇体験の確立」の最後に、著者の森本は以下のように書いています。
大仏の復興といえば、重源上人による鎌倉期や公慶上人による江戸期の復興が思い起こされ、平安初期の地震という災渦からの復興はあまりよく知られていないし、ましてや功労者木工忌部文山の名はほとんど知られていない。しかし、天平の大仏開眼を去ること百有余年、天才であれ仁斎であれ災渦からの復興という、東大寺の歴史を貫く根幹的な枠組みの祖型、つまり「東大寺のなりたち」が実はここに完結したのである。
目次
皇太子の夭折と山房/『東大寺要録』編纂者の認識/法華堂創建年次の通説/須弥壇解体修理に伴う新発見/山房は果たして、ささやかなお堂か/東大寺山堺四至図/山堺四至図の山房道/香山寺も山房のうち
山房から金鍾山房・福寿寺へ/光明皇后の写経事業/福寿寺の建立/金鍾寺か金鐘寺か/金鍾山寺・福寿寺から大養徳国金光明寺へ
国分寺構想の発露/大養徳国金光明寺の意義/大養徳国金光明寺の寺観/丈六堂の所在地/平城京還都による状況の一変/丈六堂の処分と法華堂/大仏造像工事再開に向けて
第二章 責めは予一人にあり――聖武天皇の政治観
なぜ盧舎那大仏造立を願ったか/法と国家観/経史とは何か/官人制度改革/釈教に学ぶ/盧舎那像讃一首并序の筆写/初めて冕服を着す/経史から釈教へ
責めは予一人にあり/班田収授法の行き詰まり/困窮者への米穀等の支給/逃亡者・浮浪人の現住地登録/頻繁な米穀支給と減税措置/地方行政官に対するアメとムチ
三章 宗教共同体として
黄金産出/三宝の奴/寺院に墾田地許可/産金慶賀の具体化/十二大寺への勅書/出家の動機
諸寺墾田地上限額の制定/なぜ東大寺は四〇〇〇町なのか/占定の有効期限
僧制の起源/律令制下の僧侶/行基の登場/優婆塞・優婆夷/出家の規制を打ち破る新制度/労役奉仕の日数/造東大寺司所属の優婆塞
国分寺の入寺資格/五明による教育/僧侶養成機関としての東大寺/六宗兼学/僧侶集団の規模/奴婢の実態
第四章 盧舎那大仏を世界に
藤原仲麻呂,大納言となる/紫微中台の創設/宇佐八幡神の東大寺参拝/揃って東大寺に行幸/遣唐使・遣新羅使の任命/新たな僧綱の任命/開眼師らに招請の勅書
開眼供養会への準備/開眼法会次第/内外の歌舞音楽を奏する/大蔵省から出仕僧らに布施
新羅使入京/律令制下の新羅の位置づけ/東アジアにおける華厳の隆盛/新羅王子金泰廉の奏上/孝謙天皇よりの言葉
鑑真和上ら来朝/左大臣橘諸兄,致仕する/聖武太上天皇崩御
第五章 政争のはざまで
道祖王を廃し,大炊王を皇太子に/橘奈良麻呂の変/大炊王の即位/仲麻呂は朕が父/東大寺封戸処分勅書/孝謙太上天皇と淳仁天皇との不和
仲麻呂暗殺計画/慈訓の解任と道鏡の新任/吉備真備,造東大寺長官となる/授刀衛が孝謙方に/仕掛けたのは孝謙太上天皇/造東大寺司と東大寺の活躍/公的記録から消された良弁と安寛
淳仁天皇の廃位/宇佐八幡神託事件
白壁王立太子の策謀/廃后と立太子
第六章 新たな天皇大権の確立
僧尼の度縁は治部省に/良弁僧正遷化/僧尼籍の確認調査/在京国分寺僧尼の本国送還/死亡した僧尼の名を冒称/僧綱に綱紀粛正を促す
桓武天皇の即位/国分寺僧交替の厳格化/定額寺への施入売易の禁止/諸寺の利殖行為を厳禁/教律に従わない僧侶の処罰
遷都への構想/藤原種継の暗殺/早良親王と東大寺/造東大寺司の廃止/不運たび重なる
早良親王の鎮魂/東大寺封戸の削減/酒人内親王献入帳/大仏の頭部落ちる/御頭供養会の盛儀
参考文献
略年表
結びにかえて
森本公誠(もりもと こうせい):
1934年生まれ。東大寺長老.2004‒2007年、東大寺第218世別当・華厳宗管長をつとめる。京都大学文学博士。イスラム史家として、同大学で長年にわたり研究・教育に従事。
著訳書―『初期イスラム時代エジプト税制史の研究』(岩波書店)/『イブン=ハルドゥーン』(講談社学術文庫)/『善財童子求道の旅――華厳経入法界品・華厳五十五所絵巻より』(朝日新聞社・東大寺)/『世界に開け華厳の花』(春秋社)/『聖武天皇責めはわれ一人にあり』(講談社)/イブン=ハルドゥーン『歴史序説』全4冊(訳,岩波文庫)/タヌーヒー『イスラム帝国夜話』全2冊(訳,岩波書店),第54回日本翻訳文化賞受賞 ほか
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