府中市美術館で「長谷川利行展 七色の東京」(後期)を観た! | とんとん・にっき

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「長谷川利行展 七色の東京」チラシ

 

「長谷川利行展 七色の東京」案内板

 

「長谷川利行展 七色の東京」案内板

 

府中市美術館で「長谷川利行展 七色の東京」(後期)を観てきました。観に行ったのは、6月12日のことでした。

 

昨年3月に、NHKEテレで下記の番組を観ました。これを観て一気に僕の長谷川利行の理解が深まりました。

日曜美術館「今が いとおし~鬼才 長谷川利行」を観た!


さて、府中市美術館の「長谷川利行展」、展覧会の構成は、以下の通りです。

 

Ⅰ 上京―1929 日暮里:震災復興の中を歩く

Ⅱ 1930-1935 山谷・浅草:街がアトリエになる

Ⅲ 1936―死 新宿・三河島:美はどん底から生じる

 

日暮里渡辺町の春日館(矢野文夫下宿)にて、
1939(昭和14)年 矢野文夫撮影

 

Ⅰ 上京―1929 日暮里:震災復興の中を歩く

 

「自画像」1925(大正14)年頃
 
「酒売場」1927(昭和2)年
 
「地下鉄道」1928(昭和3)年
 
「カフェ・パウリスタ」1929(昭和4)年
 
「カフェ・オリエント内のスタンド」1928(昭和3)年
 
左:「Y子の肖像」1928(昭和3)年
右:「子守娘」1928(昭和3)年
 

Ⅱ 1930-1935 山谷・浅草:街がアトリエになる

 

「房州保田砂鉄工場廃屋図」1931(昭和6)年

 

「街並風景(彩美堂)」制作年不詳

 

「クレーンのある風景」1931(昭和6)年

 

左:「二人の活弁の男」1932(昭和7)年
左:「熊谷守一像」1935(昭和10)年
 

「カフェ・オリエント」1936(昭和11)年

 

「上野駅前 車坂風景」制作年不詳

 

「府美術館」制作年不詳

 

「銀座ビルのある風景」制昨年不詳

 

左:「赤い裸婦」制作年不詳
右:「裸婦」1931(昭和6)年

 

「大根の花」1931(昭和6)年

 

Ⅲ 1936―死 新宿・三河島:美はどん底から生じる

 

「浅草風景」制作年不詳

 

「芝居小屋(旧題名:中華料理店)」
1936(昭和11)年

 

「浅草風景」1936(昭和11)年

 

「裸少女」1936(昭和11)年

 

「新宿風景」制作年不詳

 

左:「少女像」制作年不詳
右:「婦人像」1938(昭和13)年

 

「天城俊彦像」1937(昭和12)年

 

左:「土州山」制作年不詳
右:「名寄岩」制作年不詳

 

「水蓮」1937(昭和12)年

 

「田畑風景」1938(昭和13)年

 

「男の顔(自画像)」1939(昭和14)年

 

「長谷川利行展 七色の東京」

関東大震災から太平洋戦争の直前まで、昭和初期の東京を歩き回り、怒濤のように描きまくった画家がいました。近代化が進む荒川・隅田川沿い、千住のガスタンクやお化け煙突。隅田公園にできたばかりの屋外プール。あるいは浅草の神谷バー、カフェ、地下鉄の駅の賑わい。その街に暮らす、カフェの女給や浅草の芸人、質屋の子守といった無名の人々。復興進む大東京の光と影を、七色に輝く絵の具で描きとめました。

長谷川利行(はせかわとしゆき、1891-1940)、通称リコウ。京都に生まれ、20代は短歌の道を志し、30歳を過ぎてから上京。ほとんど独学と思われる油絵が二科展や1930年協会展で認められます。しかし生活の面では、生来の放浪癖からか、浅草や山谷、新宿の簡易宿泊所を転々とするようになり、最後は三河島の路上で倒れ、板橋の東京市養育院で誰の看取りも無く49年の生涯を閉じます。

利行の絵はその壮絶な生き様からは想像できないほど、明るい輝きに満ちて、時に幸福感さえ感じさせます。奔放に走る線、踊るような絵の具のかたまりが、行く先々の現場で描いた利行の目と手の動きをそのまま伝えます。本展では、近年の再発見作《カフェ・パウリスタ》《水泳場》、約40年ぶりの公開となる《夏の遊園地》、そして新発見の大作《白い背景の人物》など、代表作を含む約140点で利行の芸術の全貌を紹介します。

 

府中市美術館」ホームページ

 

「長谷川利行展」

図録

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