世田谷美術館で「それぞれのふたり 小堀四郎と村井正誠」を観た! | とんとん・にっき

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「それぞれのふたり 小堀四郎と村井正誠」チラシ

案内板
コレクション展「それぞれのふたり 小堀四郎と村井正誠」
同時開催企画展「人間・高山辰雄展―森羅万象への道」

「世田谷美術館」外観

世田谷美術館でコレクション展「それぞれのふたり 小堀四郎と村井正誠」を観てきました。同時開催企画展は「人間・高山辰雄展―森羅万象への道」でした。

長年にわたって世田谷にアトリエを構えたふたりの画家、小堀四郎と村井正誠。奇しくも同時期にパリで学んでいますが、互いに深く交流することはなく、小堀は具象、村井は抽象と、それぞれ異なる表現で創作を重ねました。

小堀四郎(1902-1998)
1902年7月20日、愛知県名古屋市に生まれる。1921年、上京し安田稔、藤島武二に師事。翌年、東京美術学校(現東京藝術大学)西洋画科に入学。1927年、同校を卒業し研究科に入学。西洋画科の同期と結成した「上社会」の第1回展に出品。1928年、渡仏。ルーヴル美術館でレンブラント、ドーミエ、コローの模写に励みながら、アカデミー・ド・グランド・ショミエールで人体デッサンを学ぶ。1933年、帰国。森鴎外の次女で随筆家の杏奴と結婚。同年、世田谷区梅が丘にアトリエ兼自宅を構える。1935年、藤島の助言を受けて官展を離れ、以後「上社会」以外の団体には属さずに制作を続ける。1945年、一家で長野県茅野市蓼科高原に疎開。終戦後も1955年まで同地に残り、農耕生活を送りながら制作に励む。1976年、東京大学のイラン・イラク学術調査団に同行し、帰国後に三部作「無限静寂」を制作。1991年、中村彜章受賞。1999年2月5日逝去。

「ラバン・アヂール」1932年

「青衣の画家」1928-1933年頃

「一つ星」1955年

「冬枯れの美」1986年

「鶴川風景」1944年

「無限静寂(宵の明星―信)」1977年

村井正誠(1905-1999)
1905年3月29日、岐阜県安八郡大垣町(現大垣市)に生まれる。1924年、川端画学校洋画科に通う。1925年、文化学院の大学部美術科に入学。石井伯亭や有島生馬らに学ぶ。1928年、渡仏。1930年と31年にアンデパンダン展に出品。1932年、帰国。独立美術協会を離れ、1934年、新時代洋画展を創立。1937年、自由美術家協会を創立。1938年、母校文化学院の講師となる。翌年、世田谷区中町に転居。1950年、山口薫、矢橋六郎らとともにモダンアート協会を創立。1954年、武蔵野美術学校(現武蔵野美術大学)本科西洋画の教授に就任。1963年、第7回サンパウロ・ビエンナーレに出品。1967年の第9回にも出品。1975年、武蔵野美術大学造形学部油絵学科教授を退任し、同大学名誉教授となる。1986年、パリ、ポンピドゥー・センターで開催された「前衛芸術の日本1910-1970」展にしゅっぴん。1998年、中村彜賞受賞。1999年2月5日逝去。

「大覚寺」1992年

「不詳(パンチュール)」1929年

「聖母と天使達」制昨年不詳

「四つのパンチュールNo.1」1940年

「二人」1984年

「それぞれのふたり 小堀四郎と村井正誠」
20世紀のはじめに生まれ、90余年の生涯を全うしたふたりの画家、小堀四郎(1902-1998)と村井正誠(1905-1999)。
ふたりは同じ時代を生き、奇しくも同時期にパリで学んでいますが、互いに深く交流することはなく、小堀は具象、村井は抽象と、それぞれ異なる表現で創作を重ねました。小堀は1935年の帝展改組を機に官展を離れ、以降、孤高ともいえる道を歩みます。いっぽう、村井は、当時まだ日本では馴染みの薄かった抽象表現の道を進み、難渋しつつも、戦後はモダンアート協会を設立するなど、自ら活動の場を切り拓いていきました。画壇に属さず、作品を売ることもせずに、ひとり制作に打ち込んだ小堀と、画家仲間とともにグループを設立して淡々と作品を発表した村井の生き方は、対照的に見えながらも、共通した時代の陰影を感じさせます。
長年にわたって世田谷にアトリエを構えたふたりの画家の諸作品を通じ、大きな戦争を経験し、価値観が多様化していく社会のなかで、それぞれが独自の美学を語り尽くそうとした創作の軌跡をご覧いただければと思います。

「世田谷美術館」ホームページ

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