吉坂隆正のベネチア・ビエンナーレ展日本館 | 三太・ケンチク・日記

吉坂隆正のベネチア・ビエンナーレ展日本館

先日の記事「都市を変えるポップカルチャーOTAKU・おたく 」の続きです。ベネチア・ビエンナーレ展 日本館は、1955年に建てられました。設計は吉坂隆正 です。日本人の建築家がヨーロッパで初めて建てられた恒久的な建築です。出入り口以外開口部のない16m角のシンプルな箱が、軸をずらした卍型の壁柱の上に、起伏のある地形の上、既存の樹木を避けるように持ち上げられています。構造的にはこの壁柱と床と屋根で完結していて、白く塗られた壁は構造的な力を負担しないカーテンウォールになっています。展示物への採光は、屋根に埋め込まれたガラスブロックによります。同じ1955年に建てられた「自邸」や「浦邸」は、コルビジュエ以上にコルビジュエ的な、見事なピロティです。このピロティがその後、菊竹清訓 の自邸「スカイハウス 」につながります。

前に書きましたが、上野にある国立西洋美術館 の基本設計はフランスの建築家ル・コルビジュエで、実施設計はル・コルビジュエの日本人の3人の弟子、前川国男坂倉準三吉坂隆正が協力して担当しました。ただ一人戦後に学んだ3番目の弟子が吉坂隆正 です。1917年生まれ、1981年、64歳でお亡くなりになりました。学生運動が一番激しかった頃、早稲田大学の理工学部長をしていました。日本の弟子3人とも、ル・コルビジュエの遺伝子をしっかり受け継いていますが、その中でもコルビジュエに最も体質的に近いのが、吉坂隆正と言われています。なんと言っても最高傑作は1957年の作品、近所の子供たちから「象さんの家」と呼ばれた、とぼけた味わいのある「ヴィラ・クゥクゥ」でしょう。この住宅は、コンクリートの可塑性を生かした、吹き抜けを持つワンルーム形式の小さな住宅です。

吉坂の作品でいまでも見ることができるのは、1958年に建てられた「日仏会館」、1960年から1980年に渡って建てられた神田の「アテネ・フランセ 」や、1965年に八王子に建てられた「大学セミナー・ハウス 」があります。吉坂は晩年、「不連続統一体 」ということを提唱しています。早くから「生態学」的な計画手法を開発し、これらの空間はデモクラシーエコロジーの合体したものであると説明しています。吉坂の遺伝子は、都市計画では「首都圏総合計画研究所 」に、そして建築では「象設計集団 」に引き継がれています。

べネチア・ビエンナーレ展 は1895年以来、世界各国が美術文化を競う舞台であり、隔年で開催されています。日本は1952年(昭和27年)から参加していますが、自国のパビリオンを持っていなかったために、作品のみの参加が続きました。ビエンナーレ当局から、日本のために保留して置いたパビリオン用地を、1956年までに目途が立たないのであれば、他国に割り当てるとの通告がありました。しかし、外務省は予算がないために、日本文化をアピールする絶好の機会を死守すべく、民間に頼ることにしました。そこに救世主の如く現れたのが石橋正二郎、言うまでもなく、ブリジストン のオーナーですね。外務省の要望を快諾したのが1955年、設計は吉坂隆正、ベネチア・ビエンナーレ展日本館が完成したのは翌年の初夏です。

実は、この話、僕はいままで知らなかったのですが、偶然に開いた「石橋財団 」のホームページでわかったことです。ブリジストンの石橋家、といえば、久留米の出身です。久留米にある創業者の石橋徳次郎邸は現在、石橋迎賓館になっています。麻布にある石橋正二郎邸は、現在、アメリカ公使公邸になっています。ブリジストン美術館 の入っているブリジストン 本社ビルがあります。共に、設計は久留米出身の松田軍平です。久留米出身といえば、メタボリズムグループ菊竹清訓 もそうですね。菊竹のデビュー作「ブリジストン殿ヶ谷アパート」は、松田の紹介だと聞いています。菊竹は、1970年大阪万博、エキスポタワーの設計者です。最近では、両国にある江戸東京博物館 が知られています。

ベネチア・ビエンナーレ と聞くと映画賞 を思い浮かべます。最近では、北野武監督・主演の時代劇「座頭市 」が特別監督賞を受賞したり、「ハウルの動く城 」が技術貢献賞を受賞したことでも知られています。建築展では昨年は、建築家の妹島和世と西沢立衛が「金沢21世紀美術館 」の作品で公共空間と個的空間との関係が高く評価され、展示部門最優秀の金獅子賞 を受賞しました。また、建築家遠藤秀平の「スプリングテクチャーびわ」(滋賀県びわ町)が「外観(SURFACE)部門」を受賞しました。ベネチア・ビエンナーレ建築展の金獅子賞は、1996年に日本館展示が、2002年に建築家伊東豊雄 が受賞しています。