同性愛を否定する前に、今とこれまでの男女という価値観をもう一度考えてみる必要があると私も思います。

今の異性愛が子供を産み出す以外に同性愛より優れていると言えるのはどこだろう。

もっとも、カップルによって様々だとは思うけれど「それぞれ」と言うしかない、決定打がないところに虚しさを感じます。

このパンデミックで、世界は変化すると多くの人たちが言っています。
私もそんな気がします。
何処へ向かうのでしょうか?

 

今回宗教畑が比較的静かな気がします。
集会の自粛を守っているところが多いです。
早い時期にクラスターを出してしまった宗教団体があったので責任持てないからなんでしょうね。
非情に人間的な判断をしていると思います。
比較的元気がいいのは陰謀論や都市伝説を扱っている人たちです。
そもそも彼らの発信ツールがネットであるからでしょうか?
「神の裁きだ」と叫ぶ人は殆どいませんが、「〇〇の陰謀だ」「宇宙人の計画だ」と叫ぶ人はかなりいるようです。
多分、一時代前には「神の裁き」と言っていたのと同じような気質の方が「〇〇の陰謀」と言っているのではないかと思ってしまいます。
どういう方々かというと、とても勉強熱心な方々です。
昔は書籍などから学んでいたものを、今はネット情報はじめ幅広い情報ソースから学んでいます。
こういった時代の流れも宗教家を臆病にさせているのでしょう。

 

さて私がやっている分野って何だろう?
私は現クリスチャンで元統一教会員だが、二度も名前を変えてしまった彼の団体はなんだか遠い存在になっています。
でもこの経歴のおかげで一般のクリスチャンとも少しズレを感じています。
心情の成長が大切だと考えるけれど、心=霊としてその成長を謳うのは胡散臭いスピリチュアルだという意見を聞いた。
そんな気はなかったけれど当たらずとも遠からずかもしれないが、殆どのスピリチュアルが輪廻転生を疑わない中、私はそうではありません。
私の人生は一度きりのものだと思っています。
その人生の中で心を磨くことは有意義だと思っています。
でもそういう考えは多数派ではないのかもしれません。

 

伝えたいと思うことがぼんやりとあるので書きます。

 

自粛警察という言葉が言われています。
自粛要請を無視していると思われる人たちに警告や制裁を加えようとする一般人を指しています。
「飲食店、パチンコ屋、営業するとはけしからん」
「他県ナンバーの車が入って来るのはけしからん」
「人の移動八割減と言っているのにまだ出勤するのか、させるのか」

 

こういうことを言う人たちの多くは
「私は我慢して従っているのに彼らは守らないからけしからん」
と、思っているのではないでしょうか?

 

我慢して守って下さっている方々には感謝です。
いつもと同じように行動できないのはそれだけでストレスです。
そればかりか、仕事をセーブしなければならない事態では
多くの家庭が貯金を切り崩しながらやりくり捨ていらっしゃるのだと思います。
貯金は楽しみにしていた旅行の資金でしょうか?
老後のためのたくわえでしょうか?
家を買うために貯めているものでしょうか?
結婚資金、子供の学資のために積み立てたもの?

 

なんにせよ、この時期に蓄えを準備できていたことは幸いです。
節度と努力の賜物でしょう。
しかし今、日々の暮らしに精一杯で蓄えが殆どないような世帯もあります。
彼らは働かざるを得ませんし、そういう立場の人が就ける仕事の多くは“現場”です。
テレワークではどうにもできない作業現場です。

 

また、世帯ではなく法人の立場でも、企業内部留保を持てる会社ばかりではありません。
家賃、リース、人件費。
固定費というものは仕事をしていようが休業しようが容赦なく出て行きます。
家族経営であれば、人件費は「ちょっと待ってね」がきくこともありますが、それぞれの世帯が多少なり貯蓄できていればの話です。
いずれにせよ、集金したお金が即、支払いに回るような自転車操業をしている法人は休業をしたらアウトなんです。

 


こう考えると自粛要請にこたえることができる人というのは最低ラインで暮らす人から見れば余裕のある人たちということなのです。
だから自分は我慢できるのに、我慢できない可哀そうな人たちを非難するのはやめてください。
備えを持たなかったことを責めないでください。
備えを持てたことはラッキーなのです。
努力はもちろんあったでしょう。
しかし努力することを学ぶ機会は与えられたものなのです。
また、努力したくても実る努力をするチャンスが与えられなかった人もいます。

 

遊びに出てきている人もいるでしょう。
暇でやることがないからパチンコに行くみたいなことを聞けばたしかに腹も立つでしょう。
そういう人たちは節度を学ぶ機会がなかったのです。
ただ、報道されている事情がすべてではないことを理解して、余裕を持った大人の対応をしたいものです。
相手の状況を完全に理解することは難しいので。

 

 

前記事でともし火さんが原罪は神様にも人にも必要なものだとコメントくださった意味を記事でアップして下さったのでリブログ。

ともし火さんは原罪を感情だと分析されたんですね。

感情は絶対に必要です。それは同意です。

ただ、原罪と感情がイコールだとは考えていない。

原罪は罪の根であると同時に不幸の根本原因とも言われるから。

確かに感情がなければ不幸を感じないだろうけど幸福も感じないよね。

ともし火さんはこのリブログ記事の次の記事に感情や欲求は魂の中から発するものだと書いているけれど、その通りだと思う。

感情は魂の根本だとさえ私は思います。

 

漠然とでも感情が原罪だと思っていいる人は多いかもしれない。

教会では「人情よりも天情が優先」だと、自分の情を越えることを目指しますものね。

「“私”はサタンだ」とさえ言う。

本然の自分を目指しつつ、それを自分の中から探さずに、組織に従うことで見出せると思ってる。

自分のことは自分にしかわからないでしょうに。

でも、漠然とっていうのが質が悪いなぁ。。。

 

原罪というのは自己中心な情だと分析する人も見かけます。

分析している人はまだいい。

求めていればいずれ答えに行き着くことができるかもしれない。

人に言われるがままに自分は罪人で贖罪のためには祝福を受けていっぱい蕩減をはらわないといけないんだと思い込んでしまったら、

相手が満足するまで払い続けなければならなくなるので、判断力を持てません。

やくざの恐喝と変わらない気がしてきた。

こういう人たちに限って、「あの人は罪が分かっていない」とか言うんですよね。

 

 

神様を愛しているというならば、神様が愛してくれている自分の魂を先ず愛してほしいなぁ。

罪とか、堕落性というのは後付けだってことは原理講義でも最初の方で言ってたと思うのだけれど。

統一教会の祝福が、原罪を脱ぐ唯一絶対の方法であると食口達は考える。
なので、文教主が亡くなってからは誰に祝福してもらえばいいのかという問題で分派問題が激しくなった。

私祝福受けていないけれど、神様との関係は悪くないと思ってます。
誰かの仲介がなければ神様に通じないとは感じません。
これを傲慢だとか、勘違いだとかいう人もあるだろうけれど、実感としてあるのだからいいでしょう?

そしてそうだと断言できるだけの行程を踏んでいるという確信もあるのね。

だから祝福を受けなくったって神様は受け入れて下さることを私は知っています。

だから今、メシアが不在でも問題はない。

 

祝福受けずに勝手に結婚したら堕落行為だと考えて、子供たちにどこの祝福を受けさせるかで思い悩み、

別れることで争いあったりする。

 

祝福には価値がないとは言わない。

祝福を受けるのは献身の決意に似ている。

献身と違うのは一人では行かれないというところかな。

 

祝福受ける必要はないと思っているけれど、人生のパートナーは必要だと思ってます。

パートナーを選ぶのは簡単ではないので、一世はある意味安直にメシアに決めてもらった感がある。

パートナーをどうやって選んだらいいかってみ言葉に何か指示はあったのかなぁ?

初愛が貴重だとか、思春期になるときょろきょろし始めるとかそんな表現があったことは覚えてるけど、

相対関係が大切だとは言ってもどういうものかというのは抽象的表現しか覚えてない。

性器の話ばかりが印象に残る。

男と女が対になる必要があると言いたいことは分かるけど、それでは条件が広範すぎる。

逆に考えれば絶対的な条件はないのかもね。

 

 

ところで、私も祝福を受けたいとは考えていたんですよね。

でも、マッチングしてもらえなかったので受けらっれなかった。

祝福を受けなければならないと考えるのは理屈ではなかった。

それが神様に対する従順を示す手段であり、信頼を示す手段だった。

自己否定の手段であり、自己否定されることが原罪を脱ぐことに通じてたのかもしれないよね。

自分勝手な結婚が堕落だと思っているから。

 

どうしたらこの祝福の呪縛から解放できるんだろう。

悩みます。

このブログ、疲れたときに弱音を吐くために書いてる節があるかもです。

でも、そういう場も必要で、弱音を吐くことが立ち止まって周りを見直すチャンスを作る。

 

私ってば結構頑張り屋さんのはずなんですけれど、年齢と共に疲れは溜まりやすくなるものですね。

蓄積されて回復しきれない疲労のことを、老化と呼ぶのかもしれないって思います。

 

思うに、20代、30代くらいまではかなり無茶できたものです。

 

 

緑のblogはなんだか他のことを書きにくくなってきた感じ。

たまには景色を変えたいと思うけれど理屈をこねまわしすぎて収拾付いてないよね。

収拾付けると言うか、思ってる結論の方向だけでも示せないとやなんですよね。

このまんまだとただの理屈やでしかないから。

 

理屈だけでは人間幸せにはなれませんよ。

 

 

 

 

あと、全く関係ないんだけど、朝テレビでやっていた軽減税率法?

お持ち帰りのお食事は消費税率8%でお店で食べると10%。

これって、ゴミ増大法じゃん!!

お店で食べれば陶器とかの繰り返し使う容器で提供される食事も

お持ち帰りするときには間違いなく使い捨て容器に入れられる。

デリバリーの場合は回収するお店もあるけれど、ワンウェイ・使い捨ての方が圧倒的に多いよね。

しかも、紙とプラスチック。

ゴミが多く出るほうが税率が低いの。

 

テイクアウトの方がお得ですよとアナウンスしているけれど、マイクロプラスチックとか問題になっているのに気にしないんだよね。

 

プラスチック製品に税金掛けるのが正解なんだと思うけれど、

今現在、安価で、加工が楽で、使い捨て前提だから衛生管理が楽なプラスチックは零細企業に支えられれらりするから、いきなりやるととんでもないことになりますよね。

 

割りばしは森林保護の観点からNGなのでプラスチックの箸にかえる流れがあったよね。

一回で使い捨てじゃないからまだいいけれど、間伐材とか使わなくなって却って森林があれたとかいう話もあったような、、、

一時の流行みたいな環境保護もきちんと考えなきゃアカン。