前作の続きですが、いよいよ日本で最初のプロテスタント教会。横浜公会の設立に迫ります。

洗礼式において諮問した執事、仁村守三、受洗した安藤劉太郎、次の洗礼式で受洗し、東京公会の創立メンバーとなった桃江正吉、英学塾学生豊田道次、4人が諜者として潜入していました。

 

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最初の受洗者たち~最初の教会の影、にせ信徒たち~

第二部

 

顔のない教会員   豊田道次

 

 

㈠ 日本最初のプロテスタント教会、横浜公会設立

長崎の港には早朝から汽船からの黒々とした煙が数本立ち上っていた。それぞれの汽船には諸大名の旗が翻り、一二隻の汽船が停泊していた[1]

豊田は胸が躍る心地で石畳の参道を上っていた。まっすぐ上れば天主堂であるのだが、もはやそこには用がなく、二度と立ち寄ることは無い。なぜなら、名前を偽り、風貌を変え宣教師やキリシタンの動向を探っていたが、今は天主堂に通うキリシタンは一人残らず出頭させられ、汽船に乗り、出港を待っているからである。豊田は天主堂を一瞥して手前の妙行寺に入った。

この日にあって今までの働きを慰労する目的があったであろう。また、やり遂げた仕事を共に喜ぶ目的で空玄や慈影、石丸が手はずを整えたのだろう。

真宗東西破邪客が一同会し、座が温まってきたころ、数隻の汽船から警笛が鳴り、長崎の町に響き渡った。

それは、キリシタン達を乗せた汽船の出港を知らせた。

妙行寺は大谷派寺院ではあったが、記念すべきこの日のため、空玄住職が座を設け東西破邪客がこぞって参加する事となった。空玄住職は門徒教誨に熱心で洋館に取り囲まれながらも一人もヤソに染まるものを出さなかった。天主教に隣接していることからか、破邪を志す者たちに対し強力な協力者であった。

「そろそろ行こうではないか」

警笛を聞き、各々その時が来た事を知り座がざわめき始めた。

いつの間にか大屋根にまで届く梯子が妙行寺にかけられ、空玄住職の案内で破邪客たちは大屋根に上った。空気の澄む冬晴れの日、長崎港が一望できるだけではなく、沖の方には白波がたち、小さな漁船の帆がはためいていた。

「ひい、ふう、みい、よ」誰かが汽船の数を数える。

数回の警笛が鳴り響き、とうとう汽船は動き始めた。

それを見ると「わっ」と歓声が上がり、お互いに手を取り合い喜んだ。この時の事を豊田は忘れない。

ただ仏敵を排除したというだけではない。それを訴え続け、それに政府が重い腰を上げ、キリシタンを排除し始めた事に喜びを感じたのだ。自分たちの小さな集まりが、政府を動かし、幕府ですらできなかった攘夷の一端を担ったのである。

明治三年一月、この時、八日までには総計二、八一〇人のキリシタンを乗せた汽船が日本各藩へ向けて出港した。浦上四番崩れというキリシタン迫害の大多数がこの時移送された。

豊田は妙行寺でその場所にいた誰もがこの時を忘れないだろうと思った。それが最初の一歩であり、これからそれがどのように広がっていくか胸を躍らせた。長崎を皮切りにキリシタンを取り締まり、ヤソの拡大を阻止する。それは攘夷の確かな足掛かりとなるはずであった。

しかし、事態は豊田達破邪客たちの思うようには進まなかった。

 

それから一年後、豊田は横浜に居た。

 

 

「洗礼を受けることになるだろう。」

豊田道次は、安藤からその話を聞いたとき、驚きと共に並々ならぬ覚悟を感じたに違いない。

また、安藤と同じ大谷派(東本願寺)の正木も無言でうなずいているところを見ると、すでに決意を固めており、自分が反対したからと言って意思は固く、「簡単に変わるものでもない」そう思った。

長崎での浦上四番くずれ、で多くの功績をあげ、褒賞を受けた本願寺派(西本願寺)に対する対抗心もあるのだろう、また、安藤自身それ以上の功績を挙げねばならないという、あせりもあるかもしれない。

大谷派の破邪僧たちは長崎では宣教師たちに近づくことが出来ず[2]、また、攘夷派や国学派からの邪魔が入り、疎開を否応なくさせられた[3]ということもあり、キリシタンの取り締まりに大した活躍も出来なかった。

特に、安藤はあの日、妙行寺の大屋根には登っていない。キリシタンの流刑実行時には大阪[4]に向かっており、現場に立ち会う事すら許されなかったのだ。

上級諜者として、大谷派を代表し、外人たちの最も多い開港場の一つ、横浜の諜者を束ねる立場に立った安藤の言葉に、決意と共に、

「いつかは自分もそうならなければならないのか」

という恐れを感じた。

既に、長崎時代からの顔見知りである豊田[5]、安藤、正木は東西出身派違うにしても、同じ目標のために共に派遣され、尽力してきた仲間同士である。異宗諜者として派遣され、宣教師の主催する英学塾に潜入していた。

しかし、当時、洗礼を受けてヤソとなるということは、まわりから白い目で見られるという事だけでは済まず、政府の取り締まり対象であり、投獄されるか、または極刑を受け、処刑される可能性もあった。[6]

それだけではなく、僧侶としての立場はどうなることだろう。耶蘇の洗礼を受けた僧侶など、果たして門徒たちは受け入れるのだろうか、安藤などは本山の学僧[7]、洗礼を受けた僧侶[8]を教授方として受け入れられるのだろうか。耶蘇の洗礼という「穢れ」を受ける事で、その立場に支障をきたす事だって考えられるのだ。

「すでに本山からの承諾[9]を受けている。」

豊田の心配を見透かすように安藤は答えた。

一方、豊田はというと、「果たして、東京を任されている自分として、本心を偽りつつ、今後そこまで深く、胸襟に入り込むことが出来るだろうか。」そう思っていた。

明治4年年末、バラの石造りの小会堂では、日本人学生たちが自主的に祈祷会を持ち始め、既にキリストを受け入れている若者たちが熱心に日本開化と救いのために祈りの輪が出来上がっていた。

安藤や正木はそこに加わり、本心を隠して偽りの言葉で祈りの声を上げているからである。

親鸞聖人が教えられた「神祇不拝」を門徒たちに教え指導してきた者が職務を全うするためとはいえ、「ヤソの名により願う」という言葉を吐き出すたびに良心が咎める。

しかし、大きな目標「この国をヤソから守り、外国の侵略から守る。また、釈教の道を全うし、廃仏の世である今、仏教がこの国に必要不可欠である事を示す」という大きな目標のため、穢れを身にまとうということを乗り越えたのだろう。

もはや「毒食わば皿まで」という境地、ならばその雄姿を最後まで見届けよう。豊田はそう考えた。

「それよりも重要なことは、同時に日本人による教会が設立される事だ。」

その言葉を聞いて豊田は事の重要さを知り愕然とした。

ようやく、長崎のキリシタンを一掃したにもかかわらず、今度は耶蘇教(プロテスタント)の教会がこの国に誕生するというのだ。しかも、それが日本人の手によってということである。

「今、数名の日本人が洗礼志願を問われている。安藤はその中の一人として選ばれた。その中で聞き出した情報によると、耶蘇教会は小川、仁村が中心として組織し、運営していく、教師たちは専らその指導に当たるという事らしい。それは耶蘇教を日本人の手によって広めるために行われる。」

正木はあの大屋根で汽船の出港を共に喜んだ大谷派の地元僧侶であり、桃江正吉という偽称で潜入していた。安藤は京出身として実名で参加していた。関と安藤を使い分けていたらしいのだが、それが後に思わぬところで正体が明らかになるのであるが、それは安藤の項目で紹介する。

「つまり、耶蘇教の拡大は次の段階に移そうという事だ。外国人達から耶蘇教が日本人に受け継がれ、日本人が他の日本人に耶蘇教を伝える段階になったのだ。たとえ、外国人を追い払ったとしても、耶蘇教だけは残り続ける。」

あの、長崎でのキリシタンは250年の間、指導者たる聖職者たちが追い払われていた。

キリシタンは幕府の厳しい取り締まりを受けていながら、日本人をはじめ、外国人すらも、誰もが根絶やしにされ、跡形もなくなってしまっていると考えられていた。しかし、その間、何世代にもその信心は受け継がれ、ふたを開ければ、何千との邪教の信者が発見されたのだ。一度根付いてしまったら簡単には滅ぼしきれない。ヤソとはそう言うものであるという事を指し示す悪しき前例である。

「何とかならぬものか。」

深い溜息のような豊田の言葉は野毛聖徳院下の安藤の屋敷に重く響く。

現在、外国人によって開港場で行われる事は全て黙認状態である。

攘夷決行を突き付け、幕府に大政奉還を迫ったにもかかわらず、新政府はと言いうと「五榜の掲示」[10]によって邪宗厳禁を明確にしたが、外国人からの抗議によって、邪教厳禁の条文は二カ月足らずで書き換えさせられた[11]のである。

また、外国人たちは三千人を流刑決行も、各藩に「やんわり」と取り扱うように食料や衣類、給金まで与えるという通達[12]を政府に差し出させた。

依然として弱腰の外交に、現場にいる諜者たちは口には出さぬが不満を募らせていた。キリスト教の拡大を防ぐために潜入を命じられているのもかかわらず、その先頭に立つべき政府が黙し続けている。まだまだ忍耐が強いられる。

「いかんともしがたいが、このまま動向を探るためにもう少しここで踏ん張らねばならない。」

苦虫を嚙みつぶすような安藤の言葉に、豊田は言いたいことをすべて飲み込むしかなかった。

言いたいことの趣旨はこうである。耶蘇排除のために攘夷を迫った宮中の若手の公家たち、弱体化した幕府、それに乗じ、大政奉還と新政府を樹立した薩長ではあったが、しかし、顔は変わっただけで内容は変わらず、依然として外国人に対して強硬な手段を打つことは無く、今もこの国は同じように耶蘇の凌辱を受けているのだ。強烈な攘夷論者であり、キリシタン一掃を主導した澤が外務卿に就任しても状況は変わらず、外国人たちの圧力は増すばかりである。

しかし、そのことを誰よりも身に染みていたのは安藤自身である。なぜなら、昨冬、安藤は渡辺昇の命により、雪に閉ざされている金沢にキリシタンの状況調査に派遣されたのだ。

流刑された浦上キリシタンが厳しい拷問と虐待により、苦しめられていると新聞に掲載され、それにより政府は激しい抗議を受けていたのだ。

そのため、外国人たちに虐待がないと納得させるため弾正台は調査員として安藤を派遣した。  

しかし、その道のりは過酷[13]を極めた。帰途、体調を壊し身動きが取れなくなってしまい急遽、安藤は加州藩大参事世良太一に変わって報告してもらわなければならなかったのだ[14]

極刑でもおかしくない国賊の安否ために、雪に閉ざされた金沢を訪ねさせられ、身を張って結果、病に伏した安藤が一番理解しているはずである。

「しからば、その時には私もその輪に加わるべく一層邪徒に侵入しよう。」

安藤や正木の決意を無駄にしないよう逐一目に焼き付け、排邪を涙告し、なんとしてでも政府の良識ある指導者たちの目を覚まさせるのだ。

豊田の目標はそこにこそ達する。

 

 

潜入者達の意思

 

日本においてプロテスタント教会第一回の洗礼式及び教会の設立について、三部の報告書があったようである。一つは洗礼を受けた安藤、そして第二回洗礼式にて受洗する正木、豊田道次のものである。安藤のものは現在不明であるが、豊田の「諜者某の諜者報告書」は最も内容が細かなところまで記載されている。複数の報告書、複数の潜入者の存在が確認され、事の重大さはその注目度に表されている。

それは教会側からすれば記念すべきであろうが、諜者側からすれば、この上ない不法行為であった訳である。そして、確実に外国の侵略が日本に広がる兆候であり、外国人教師にたぶらかされた若者が次々と日本を裏切る言葉を述べ、宣言する出来事であった。

豊田の報告書の終わりは、

不肖その席に列り始終を傍観し けは彼か奸黠(かんかつ)の遠畧(えんりゃく、深い策略)を悪み

(その席に同席し、事の成り行きを探っていると、その悪賢い策略に憎しみが増してきた。)

退けては我、真心のうすくして至らさるを証け、身心悩擾、始と断腸の思いに沈む

(その場を去った後には、この事態になったのも自分が至らなかったことを知り、悲しく、つらい思いに責められる。)

伏て願う、憂国の諸賢君、一日の延促、国家の興廃にあらん欽

(土下座してお願いする。この国を憂いている指導者たち、一日遅れることに国の未来がかかっているではないか。)

迅く帷幄(いあく)の策を立て、以て防禦の道を施き、皇国不易の大道を維持したまわんことを云尓

(早く対策を立て、キリスト教の拡大を防ぎ、天皇国家の道を守るべきなのだ。)

と締めくくられている。

この報告書や、他の諜者たちもそうであるが、潜入者たちが、単なる為政者たちの「駒」として教会に潜入していたのではなく、強い意志をもってキリスト教の拡大防ぐ目的を果たすために潜入していたことがわかる。豊田自身も、キリスト教の日本への侵入、拡大が国家を揺るがす一大事であるという認識を持っていたのである。政府の諜者の一人として長崎より場所を移し、東京の宣教師の元を出入りするのである。

 

㈢ 教会設立の実像

豊田の報告書をなるべくそのまま現代文的に記す事とする。日本の教会にとって記念すべき時を直接体験した人物の臨場感、緊迫感が伝わるだろう。解説を入れずそのまま記載する。

 

一、 明治5年2月2日(旧暦)朝9時、キリストを受け入れた英学塾の生徒やまだ受け入れていない生徒数十人が会堂に集まり、その時、バラ宣教師は言った。

「今日はとてもおめでたい日です。ここにいる九人は洗礼を受けることを望んでおり、キリストに代わって私が洗礼を授けます。同時に、教会を設立することとします。日本の伝道のためには必ず必要なことです。教会の政治にはいろいろあり、国によって違いがありますが、まずはアメリカ式の政治に従い、まず長老を立て、教会を組織することとします。」

「それゆえ、まず選挙をして、長老を決め、会議をして規則を立てます。つまり、会議によって各人が意見を言って規則を決めるのです。」

その後、長老選挙が行われ、小川健之助というものが長老に選ばれた。

(この男は、邪教に入った重要人物です7~8年前より、教師と一緒に行動しており、タムソン宣教師から洗礼を受け、昨年からバラの家に住み込み、教理を学び、親類を問わず、多くの人に伝道し、誘惑し、キリスト教を教えています。)

小川を長老とすることが決まり、互いに挨拶をかわし、十二時には一旦昼食のため解散。

再び午後三時、教会に集まったのは七人の外国人の教師と既に洗礼を受けていた2人の日本人、(ほかにも洗礼を受けていた日本人はいたが教会には来なかった)

本日受洗者は9人。

伊勢津、佐藤一雄 

同、戸波捨雄 

静岡、篠崎桂之助、

静岡、竹尾忠良 

京、安藤劉太郎 

松山、押川方義、

松山、進村漸 

同、吉田信好 

大坪正之助、

 

その他、多数の英学生が礼拝堂に集まり、バラ、ブラウン宣教師が前に立ち、洗礼志願者9人が前に並ぶと、初めに小川、仁村の二人が、一人一人に問いかけ、諮問をする。

その後、宣教師たちも一人一人に信仰を告白させた。

生徒たちは口をそろえ、

「先生の尋ねる事、示す事、私たちは体を殺し、固く守ります。」

と誓いの言葉を言った。

バラは天に向けて祈祷文を読み、手に盆から水を取って言った。

「篠崎桂之助、我、父と子と聖霊の名によて汝に洗礼を授けり」

そう言いながら、頭に水を注いだ。

残りの8人も同じように行い、終わった後、長々と天に向けて祈っていました。

その言葉は、私には聞くに耐えないものでした。

洗礼式は終わり、宣教師は言った。

「今日、神様の導きによって、私たちは神の家族となりました。このことはとてもうれしく、日本に来て初めての喜びです。」

そういうとバラは目から流していた涙をぬぐった。

その状況はなんとも説明しがたい光景です。

続いて、

「それから、神様の命令によって、今日初めて教会を設立し、小川さんを長老とします。これも私たちの力ではなく、全て神様のなさった事、であるから、今、私はキリストの代わりに小川さんを長老の権威を授けます。あなたたちは、これからどんな時も小川さんに従い、理解しあって伝道し、宣教師の指導がなくてもキリスト教を広め、この日本を守ることに努力することを願います。」

小川を座らせ、バラ、ブラウン両宣教師は、前に立って小川の頭を抑えた。

天に向け祈りを唱え、長老の任命を行った。小川は、額に手を当て涙ながら平伏し、長い祈りをささげた。

以上が豊田の報告書の内容である。

 

㈣ 教会誕生の背景

 

明治五年三月(新暦)、日本で初めてプロテスタント教会が誕生した。

未だキリスト教厳禁の高札は降ろされておらず、禁教は解かれていない中、政府によって取り締まれられる可能性のある中での教会設立である。

バラ[15]は日本人学生らから初週祈祷会の申し出を受け、石造りの会堂を提供した。日本の救いのため、熱意ある祈りと青年たちの求道心、それに心動かされ、教会設立に踏み切ったのだ。バラ自身においても、それまでの働きの種が大きく花開く時であった。

未だ浦上のキリシタン達は流刑されたままの状態、教会設立が公になり、日本政府がその気になれば、この日本人達は同じように捕らえられ、それまでの働きの実もすべて取り去られてしまう。そんな可能性もある中での教会設立である。キリスト教について公許が約束されていない中での教会設立は見切り発車的な一面もある。

英学塾の講師や医療など、政府の要人に深く信頼を受けキリスト教に対する偏見を払拭しようと活動している一方で、長崎でのキリシタン騒動はプロテスタント側にあってはいい迷惑であり、宣教が一歩も二歩も後退しうる出来事であった。開化が広く一般的になりつつある日本ではあったが、一歩地方に踏み込むなら、キリスト教は耶蘇として疫病のように毛嫌いされている。そのような中での教会設立は時期尚早という見方も出来るかもしれない。

信仰告白をしている日本人には身に危険が降りかかり、宣教師自身にあってもより活動の妨げになるばかりか、それまで以上に命の危険まで危ぶまれる。しかし、二人の長老が核となり、熱心に日本の開化とキリストの救済を求めている複数の日本人生徒の姿に後押しされた。

しかし、その行動は監視下にあり、逐一報告されていただけではなく、信頼し、設立される教会の核となるべき生徒、長老の中に、本心を欺いている者たちがいたことをブラウン[16]、バラ両宣教師は知らなかった。

以下続く。


[1] 『切支丹の復活』後浦川和三郎著日本カトリック刊行会三〇七ページ

[2] 前掲『維新政治宗教史研究』437ページ西派「豊前浄榮、肥後一道などが千厳、猶龍の両人は破邪のために遣わされてきた」と宣教師に告白する。肥後一道が二川一騰である。

[3] 『維新政治宗教史研究』445ページ慈影猶龍の伺い書「洋書を見、洋人と親密にする者は暗殺のための探索に上がるというような勢気にある。~長崎に洋書研究は洋僧に茂親睦の意味は破邪のため研究と説明しているが、~誅殺の必要人物と評議されている」宣教師に近づくことで攘夷派から命が狙われ、早々に長崎を離れなければならなかった。

[4] 大隈文書『諜者報告書明治五年申三月安藤劉太郎』「耶蘇教師エムソールに従て彼か情実の一端を探索し欲明治二年巳秋故ありて大阪へ引移ろ洋学校へ入学~一昨明治三年秋当港(横浜)へ来たり」

[5] 豊田が僧侶であったかどうかは不明であるが、西派石丸の配下であることは間違いない。

[6] 第二回受洗者である熊野雄七は受洗後大村藩の渡辺、楠本に呼び出され詰問された。新村漸は養子先親族から縁を切られ、実家に戻り櫛村漸とならざるを得なかった。

[7] 高倉学寮の学階は講師、嗣講、擬講、寮司、擬寮司となっていて、長崎留学時安藤は擬寮司であった

[8]高倉学寮では、キリスト教研究機関である護法場を設立時、「耶蘇の教書」など穢れたものを本山に持ち込む事に抵抗を受け、急遽学外に場所を設けなくてはならなかったほどである。

[9] 安藤が洗礼を受ける際、「内諾」を受けていたことが諜者報告書に記載されている。

[10] 慶応四年に太政官が立てた高札の第三には「切支丹邪宗門ノ儀ハ堅く御御制禁タリ」と明確にキリスト教禁制を示したのであるが、閏4月4日には書き換えられてしまった。

[11] 邪の文字をキリスト教に宛てるとはどういうことであるかとの抗議を受け、苦肉の策として邪宗門と切支丹とを分けてた。当時の列強と呼ばれる外国勢力は条文を二カ月ほどで書き換えさせるほどの圧力をかけることが出来た。

[12] 日本外交文書『浦上村耶蘇教徒に対する処置に関する件』第三巻事項二五

「病気のせつはかねてたておき候、病院の医師に診療致すため油断なく診療候…病死の者は即埋葬申しつけ候 食料 一、男六歳以上一人前5合一、女六歳以上同四合一、男女とも五歳以下二合五勺 一、当歳乳無之者え飴一日三十目椀その他 味噌、塩、漬物、他に菜代七十銅 一、布団一人につき一枚宛一、夏冬共時服一枚宛」と金沢藩に流刑されたキリシタンの取り扱いに対する関一郎の報告書がある。これは新聞にキリシタンが鳥の籠のような場所に押し込められ虐待されているという記事が載り、パークスよりの抗議を受け調査のため弾正大忠渡辺昇が関(安藤)を派遣した。流刑先では手厚い待遇を受けていたという見方もできるが、キリシタン達の取り扱いについて各藩においてはまちまちであり、実際に拷問、虐待を受けていたケースもあり政府が事細かく通達しなければならなかったということがわかる。

[13] 『同書』澤とパークスの応接記録には、パークスが関一郎の報告書は信用できないとして、領事を同行させ調査したいと申し出るが、日本側は金沢への道は大雪のため「おおよそ幾日頃と言いたくても、東京より何日に来れると聞かれても困る」という。その回答を無視し、パークスが「然り、二十二日の夜までに新潟への手紙届方御頼み申候て可燃哉」と言いうと、「拙者好きでキリシタンの事を論ずるに非ず。」と最後には我慢が出来ずに怒ってしまう。

[14]

[15] ジェームス・ハミルトン・バラJames Hamilton Ballagh、1832年1920年 861年来日 改革派教会

[16] サミュエル・ロビンス・ブラウンSamuel Robbins Brown、1810年-1880年 1859年来日 アメリカオランダ改革派教会