土岐氏武将印 1 光衡公と光行公 | とんかつおやじのブログ

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美濃土岐氏の武将印を制作中 

 

一人目は 美濃土岐氏の祖とされる 「土岐光衡」をトップに

 

 

 

源光衡/土岐 光衡は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。美濃源氏嫡流である土岐氏の祖。伯耆守源光長の三男。鎌倉幕府御家人。

治承・寿永の乱で討死した源光長の子であるが、伯父光基の養子となり土岐氏の嫡惣を継承した。平家滅亡後は鎌倉幕府の御家人となり、建久4年(1193年)に源頼朝が富士裾野へ夏狩に出掛けた際、これに随行した「土岐三郎」は光衡であると推定されている。美濃国土岐郡一日市場館を本拠として「土岐」を号したとされることから、実質的な土岐氏の祖とされる場合が多い。{Wikipediaより}

 

 

 

 

 

 

二人目は 土岐氏当主二代目の 「土岐光行」

土岐 光行は、鎌倉時代前期の武将・御家人。土岐氏2代当主。

美濃源氏の嫡流・土岐光衡の長男として誕生。
父に続き土岐氏の惣領として鎌倉幕府の御家人に列したが在京し後鳥羽院の西面武士をも務めるなど朝廷との繋がりも深かった。建保4年(1216年)左衛門尉に任ぜられ源実朝の征夷大将軍叙任拝賀の際には随兵となり、後鳥羽上皇は光行の武勇と土岐家勢力を期待し院中鍛練の御刀を下賜した。
幕府方の記録である『吾妻鏡』には建保4年(1216年)以降、「土岐左衛門尉」としてその名が散見される。しかし、承久3年(1221年)の承久の乱における動向については同書に官軍としてみえている「土岐判官代」を光行と比定し、多くの美濃国の武士らと同じく京方に付いたとする見方がある一方で、光行が乱の後にも「土岐左衛門尉」として同書に現われていることなどから「土岐判官代」は同族の別人(弟・光時か)であるとし、光行自身は幕府方に付き行動していたとする見方[2]も有力視されるなど明確でない。
「土岐判官代」を光行と比定した説では、光行は承久の乱で後鳥羽上皇の京方として1000の軍勢で参陣し木曽川西岸、稲葉郡鵜村山那の池瀬を守り足利義氏軍100000を相手に対戦するが大敗し美濃守護職を失うが、千葉氏の後見で断罪を逃れ、光定以降、美濃における有力御家人へと成長する。また、光行は居館のあった鶴ヶ城の地を去り土岐郡浅野[3]で土岐川を北にした浅野館(下浅野分堂前)に逼塞した、ここで土岐浅野光行を名乗った。同地にある永松寺の境内に供養塔が存在している

{Wikipediaより}

 

 

 

昨日 一宮市の河津桜をブログにて知り 通院後 お邪魔してきましたおねがいおねがい

 

 

 

 

 

↓1年前の今日書いた記事