安東伊賀守守就戦死の地 (本巣郡北方町) | とんかつおやじのブログ

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安東伊賀守守就は、信長の死後、旧領地を取り戻そうと北方の旧城に帰った。新領主の稲葉一鉄を本田村に迎え撃つも敗れ、一鉄軍は夜半北方に侵入、町屋に火を放った。 守就は五百余人の手勢で防戦したが、猛火の中で落城。守就らは千代ヶ淵まで落ち延びたが一族・旧臣ことごとくここで戦死した。世に北方合戦という。 北方町HPより

 

 

岐阜県指定重要文化財

 

天正8年(1580年)8月、突如、信長に野心ありとの嫌疑をかけられ、林秀貞、丹羽氏勝と共に粛正の対象となり追放される。この要因は美濃・尾張を拠点とする信長にとって、かつての仇敵であり、美濃に勢力を張ってきた守就の存在が穏やかでなかったからであるとも推測される。信長公記には林、丹羽を含めた三名の追放の理由として「先年信長公御迷惑の折節、野心を含み申すの故なり(先年、信長公が苦闘を重ねていた折、それに乗じて野心を含んだためであった)」とのみある。

天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変が起こり、信長が明智光秀により討たれると、守就は子・定治と共に挙兵して北方城を奪い、再起を試みた。しかし当時の北方城の領主・稲葉一鉄(良通)に攻められ敗北。6月8日に一族共に自害し美濃安藤氏は滅亡する。享年は80とされる(『稲葉家譜』)が、正確な生年は不明。 ウィキペディアより

 

 

 

 「守就の最後のひと花が仇となったかのう」

 

 

 

 「80歳?殿御は余生をのんびりとはいかないものですか?」