昔は1192いいくに作ろう鎌倉幕府

今は1185いいはこ

1185年は鎌倉幕府が政治基盤を整えた年と言われる。1192年は源頼朝が征夷大将軍に任じられた年でわかりやすい。


ところで征夷とは何か?

夷とは『えびす』と読み、異民族の意味をもつ。古来中国では東夷とうい、南蛮なんばん、西戎せいじゅう、北狄ほくてき。と東西南北に異民族があり、夷、蛮、戎、狄のすべて『えびす』と読む。本来征夷大将軍とは、東の異民族を平らげるための地位であり、坂上田村磨呂などが征夷大将軍に任じられたのは、当時の異民族であった東北地方の平定のためであった。と考えられている。

では、朝廷は何故、源頼朝という稀代の武将を征夷大将軍に任じたか?と考えると……朝廷の『西には来てくれるな(笑)』ということではないか?と私は考える。武力を持ち、権力を持ち、地位を持った人間が朝廷に入って欲しくなかったのではなかろうか?

よって、東側をもっと日本にしてくれ、という征夷という名がそれにピッタリはまったのかもしれない。


現在の日本でも、政治において人気のある議員を、ちょっと端っこの大臣に付けて人気取りをしたり、貶めたり、大臣という名の箱の中に閉じ込めたりするのは、良くあることだ。


だから、歴史は面白いと私は思う。

承久の乱において、朝廷側の一番の誤算は上洛の兵を挙げたことだろう、そして二つ目はそれについていく御家人が想像を越えて多かったこと。上洛の兵を挙げたとしても、それについていく御家人が少なければ朝廷としては、そこまで問題はなかったのかもしれない。

皇室から分け出た家、武家の棟梁源氏が打ち立てた政権で、しかも源氏の世継ぎが跡絶えた状態、将軍(鎌倉殿)不在で朝廷としては千載一遇のチャンスと捉えたであろう。誰だってそう思うだろう。相手は混乱の最中、これ以上の隙はない。


しかし、事はそううまく運ばなかった。

2代将軍頼家、3代将軍実朝の母である北条政子が自ら檄を飛ばす。


鎌倉軍は最終的に数十万の軍勢になったと言われる。

朝廷軍は散々に打ち破られた。


現在と重ね合わせれば、ソ連から別け出たウクライナが鎌倉幕府、ソ連であったロシアが朝廷といったところだろうか?


うん、なんか違うが、まぁいい。


またにはこういう考察も面白いものだ。