先日、祖父母のお墓参りへ。バラが綺麗な場所に眠っているから、いつも満開の時期を狙って訪ねているのだ。

夫が運んでくれたバケツから水を注いで、墓石の表面を洗い流し、自宅から持参した古い歯ブラシで、祖父母の名前と生まれた日、去った日の刻みも丁寧に磨き泥を落とす。

子どもの頃(というか二十代になってもそうだった)は、彼らがいなくなったら世界が壊れてしまう……と思っていたけれど、祖父がこの世を去っても平然と朝日が昇ることに愕然とした。

祖母がこの世を去って、あの家で私を迎えてくれる人はいなくなった。

住人を失った部屋に入ったとき、とうとうこの日が来てしまったと思った。いつかはこの時を迎えねばならないと分かっていたけれど、どうしようもなく涙が流れた。

もう誰も「やあ、いらっしゃい」と笑ってくれない。「violaちゃん」と嬉しそうな声で呼んでくれない。

それでも私は生きている。内側にたくさんの悲しみや行き場のない気持ちを抱えていても、簡単に呼吸は止まらない。

 

なぜ急に思い出したのかと思ったけれど、ちょうど祖母を見送った時期だからだ。

四年前の六月。「祖母はもういつ逝ってもおかしくない」と聞いた日、当時は恋人だった夫を呼び出して焼肉をおなかいっぱい食べた。

誰かを見送るのは戦いだ。少しでも多くその人と過ごすための力。いつ呼び出されても駆けつけるための力。そして訪れる悲しみをどうにか受け止め、弔うための力。

カロリーは力だから、めいっぱいため込んで全部を祖母のために使おうと思った。その時は、ほどなく訪れてしまったけれど。

 

祖父母の眠る霊園に、私の骨がいつか入るはずの場所もある。必ずそちらも異状ないかチェックして帰る。

幸いなことに、今のところそこには誰も入っていない。おかしな話だけれど、私にとってその場所は癒しなのだ。

これからどのように生きていくか、それは分からないけれど、最後はここ。それだけは確実だからだ。

誰かを喪ってもそう簡単に歩みを止めてくれない身体に、思い出が詰まった心を閉じ込めて、今日も私は生きている。

 

 

少し前、お散歩中に見つけたバラ。

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