「君子が恨みを晴らすには…」
2013.09.22

「君子報仇、三年不晩」。中国語の成句である。君子が恨みを晴らすのに、3年でも遅くない、という意味だ。つまり、中国人が恨みを抱いたら、何年かけてもかならず晴らしてみせるというのである。ここでは3年だが、「十年不晩」という言い方もあるようだから、すぐにはできなくても時間をかけて成し遂げる。その間、表面的には穏やかに見えても、チャンス到来とあらば直ちに反撃に打って出る。 馬英九総統と王金平・立法院長との間で繰り広げられている「9月政争」を見て、この言葉がすぐ頭に浮かんだ。馬英九総統は8年前の出来事が今回の政争のきっかけだということは否定しているが、両者の間の恨みつらみでしか、今回の出来事はうまく解釈できない。 その事件は、8年前の2005年7月16日に投票が行われた国民党主席選挙で起きた。2回にわたって出馬した総統選挙にいずれも敗れた連戦氏が国民党主席を辞任したことで、国民党は新しい主席を選ぶことになった。国民党は2000年と2004年の総統選挙に敗れ、民進党の陳水扁政権の下で野党に転落していた。

 当時台北市長だった馬英九氏は、高い人気を背景に次期総統の最有力候補としてこの選挙に出馬した。これに対抗して出馬したのが、国会議長として隠然たる勢力を誇るとされた王金平院長だった。当初から馬英九氏有利とされていた選挙だったが、馬英九陣営は王金平院長が金権政治家だと暗示するネガティブ・キャンペーンを展開した。 結果は馬英九氏が党員投票で37万5056票を獲得して当選。王金平院長は半数以下の14万3268票で落選した。 馬英九氏は外省人。これに対して王金平院長は本省人である。しかも、もともと旧高雄県の地方派閥をバックにした土着性が強い政治家だ。このため、国民党内の「本土派」つまり本省人系の代表的な政治家と見られており、本土派の間に強力な人脈を持っていると見られていた。李登輝・元総統とも関係が深いとされていた。なにせ、1999年から立法院長を務めている政治家なのだ。ところが実際には、主席選挙で馬英九氏に無残な敗北を喫したのである。 その時、私は馬英九氏の選挙本部の記者会見場にいた。馬英九氏の当選は確実だったので、当選の感想を聞こうと思ったのだ。ところが当選がほぼ確定したというのに、馬英九氏はなかなか姿を見せない。ようやく会見場に姿を見せた馬英九氏の表情に、当選の喜びはなかった。顔つきはむしろこわばっていたのが印象的だった。会見ではまず王金平氏に協力を呼び掛けた。

 この時、馬英九氏は次のように語っている。 「王金平・院長には、第1副主席になってもらい、自分と共に国民党の中央指導部を構成してほしい。
 王院長は7時ごろ、私に祝賀の電話をかけてくれた。私はすぐに会って話し合いたい、そして第1副主席になってほしいと申し込んだ。しかし、王院長はすぐに台北を離れて南部へ行かなければならないと、私の申し出を断った。私はテレビで王院長が記者会見に臨んでいるのを見て、自分の選挙本部から急いで駆け付けた。しかし私が到着した時、王院長はちょうど車で離れるところで、私を待ってくれなかった。私は引き続き王院長と連絡を取り、第1副主席への就任を要請するつもりだ。 王院長は議会のトップだ。議会でわが党は優勢だ。党主席としては、当然、これを重視することになる。議会では効果的に与党を監視する役割を果たしたい。それには王院長が必要だ。王院長が選挙で公約していた15項目の公約は、国民党の将来の政策に取り入れたい」 会見に姿を現すのが遅くなったのは、馬英九氏が王金平院長に会いに行っていたからだった。

この選挙で最も驚かされたのは、思いもしなかった選挙後の王金平氏の行動だった。王金平氏は選挙結果がほぼ判明すると、馬英九氏に電話をかけて祝福するが、当選直後で忙しいだろうからと、面会を求める馬英九氏の申し出を断る。王金平氏が自分の選挙本部で敗戦の記者会見を行っていることをテレビで見た馬英九氏は、急いで駆け付ける。 馬英九氏が到着すると、10分ほどの短い記者会見を終えた王金平氏は車に乗り込んで、選挙本部を去るところだった。馬英九氏は「院長、院長」と呼び掛けて車の窓をたたくが、窓は開かない。いったん発車するが、カーブを曲がり切れずにややバックする。馬英九氏は再び窓をたたくが、それでも窓は開かず、今度はそのまま走り去ってしまう。王金平氏はそのまま地元の南部に帰ったのだという。面会を拒否された馬英九氏は、驚きの表情を見せた。 選挙後に2人が紳士的な態度を見せ、国民党の党本部で2人が握手するという場面は消え失せた。王金平院長の行動は、当時は国民党だけでなく台湾の政界全体に暗い影を投げかけた。

 この選挙によって、国民党の総統候補者はほぼ馬英九氏に絞り込まれることになった。国民党主席はかつて党大会で選ばれていた。党員の直接投票での主席選びとしてはこれが2回目となる。ただし1回目は、候補者が連戦・国民党主席の1人だけで、事実上の信任投票だった。複数候補者が争ったのはこれが初めてだった。2回の総統選挙に負けて政権から離れること長きにわたる国民党が、2008年の政権奪回に向けて打ち出した起死回生の方策である。これによって、国民党の党内民主化を印象付け、イメージアップを図ろうということである。 その国民党のイメージアップ作戦が、かえって国民党内部の派閥対立を浮き彫りにしてしまう結果となった。しかもこの選挙では、主席を退任した連戦氏が王金平院長に投票したことが分かっており、また国民党から分裂した後に2004年の総統選挙で連戦氏とコンビを組んだ親民党の宋楚瑜主席が王金平支持を表明している。 国民党はいったいどうなるのか、馬英九氏のこわばった表情がそれを象徴しているかのようだった。台湾では選挙を行うたびに社会に亀裂が深まる。一般の選挙でもそうだが、国民党という政党が行う内部選挙でも同じだった。 国民党主席に当選した馬英九氏は、国民党中央常務委員会で、選挙中の王金平院長に対するネガティブ・キャンペーンについて謝罪した。こうして馬英九氏は繰り返し謝罪するなど関係修復を試みる。しかし王金平院長は、謝意を示すことと謝罪は別のことであると切り捨て、馬英九氏が何のために謝罪をしたのか自分には分からないと語るなど、馬英九氏の謝罪を拒否した。また、国民党副主席への就任も拒否した。 ただ、現場から逃げてしまった王金平院長に対して、当選した馬英九氏が記者会見に参加した記者1人1人としっかり握手をし、きちんと相手の目を見て手をきつく握っていくのに感心したのを覚えている。人に対する誠実さを感じる握手だった。そうしたところが、王金平院長にはない馬英九氏の政治家としての魅力なのだろうと思った。 馬英九氏はこの選挙には勝ったものの、王金平院長から完全に顔をつぶされることになった。その後、馬英九氏は台北市長時代の特別費流用疑惑で国民党主席を辞任に追い込まれることになる。この事件は無罪が確定し、2008年の総統選挙に出馬して当選する。一方は総統として、もう一方は立法院長つまり国会議長として、表面的には大きなトラブルなく両者の関係は維持されているように見えた。それから8年。君子が恨みを晴らすにはまだ遅くはなかったのである。馬英九氏はその間、恨みを晴らすチャンスを待っていたのだろう。

ということで、今回の「9月政争」事件のこれまでの経緯を復習しておこう。 今回の騒動の発端となったのは、9月6日、最高検察署特偵組が開いた記者会見だ。この会見で、民進党所属の柯建銘・立法委員と王金平・立法院長との間の電話での会話に対する盗聴の内容が公表された。それによると、柯建銘委員は自分がかかわっている司法案件について、王金平院長を通じて司法当局に圧力をかけたというのである。まず、この件で司法当局に直接圧力をかけたとされる曽勇夫・法務部長(大臣)が、無関係を主張するにもかかわらず辞任に追い込まれた。 ところがそうこうするうち、本当のターゲットが誰なのか分かってくる。それは王金平院長だった。 馬英九総統は翌7日、娘の結婚式のためマレーシアに渡っていた王金平院長に対して、直ちに帰国して説明を行うよう命じる。 さらに8日、王金平院長の行為は政治による司法への介入だと位置付け、「これは台湾の民主法治の発展にとって最も恥ずべき1日だ」と痛烈に批判する。もちろん、王金平院長と民進党の立法委員の間の電話盗聴だけで、犯罪が構成されるわけではない。司法への圧力があったとしても、金銭が動いたわけではない。そうした状態での断定である。 一方の当事者である柯建銘委員は、民進党の立法委員のリーダー的存在のベテラン政治家である。彼は、電話をかけたのは無罪が確定してからのことだと主張し、司法への圧力を依頼したことを否定している。ただ、王金平院長が国民党員でありながら、同じ「本土派」として野党の民進党の関係者とも深いつながりをもっていることがこれから分かる。

 王金平院長は10日になって台湾に戻る。空港には3000人近くの支持者が出迎え、「王院長、頑張れ」とコールした。そこで王院長は、「司法への圧力は認めない。院長を辞任しない。国民党から脱退しない」と宣言した。 馬英九総統側は、王金平氏はすでに立法院長に相応しくないと断定し、自主的な辞任を要求した。そして11日、国民党は馬英九総統の主導の下で、王金平院長の党からの除名を決定するのである。 これによって苦境に陥るのは王金平院長である。国民党を除名されれば立法院長の位置どころか、立法委員の資格も失ってしまう。というのも、王金平院長は政党比例代表制で国民党候補として出馬しているからだ。地方区ではなく比例区だから、当選した当時の政党に所属しなければ、当選資格が失われる。 王金平院長は2004年の立法委員選挙で、それまでの地方選挙区から比例区に移っている。というのも、その前の選挙で民進党の若い女性候補に票数で負けている。面子をつぶされてしまったのだ。その時の選挙はまだ中選挙区制だったため当選できたが、小選挙区制に移行した場合は民進党が強い高雄で彼が当選できるかどうか分からない。

 地方政治の大ボスのように言われる王金平院長だが、このように地元での基盤は決して強くない。このため比例区に移ることを選択したと考えられている。政治的な地位を保つためには、なんとしても国民党にとどまるしかない。また、王金平院長は根回し型の古いタイプの政治家であり、カリスマ的な大衆政治家ではない。自ら党を割って新党を結成することは考えにくい。彼が党を割ったとしても、与党所属の身分を捨ててまで付いて行く国民党の立法委員がいるとも考えにくい。 王金平院長は国民党員としての資格を守るため、民事に訴える手段に出る。国民党による党除名の処分を凍結するよう、裁判所に対して仮処分を請求したのだ。13日に台北地方法院(地裁)はその仮処分を認めた。これによって、王金平院長は一時的に国民党員としての身分を確保し、立法委員、立法院長としての身分も保留することになった。本裁判になった場合、判決までにかなりの時間が必要だから、決着は先送りされた。 国民党はの仮処分取り消しを請求しているが、中秋節の4連休に入って両者の戦いは一時休戦に入っている。今のところ王金平院長が仮処分作戦で優勢だが、予断は許されない。この国民党内の争いは、今後の立法院での重要法案の審議に重大な影響を与えることになる。 王金平院長は国民党を離脱する意欲は示しておらず、馬英九総統に対する服従を表明している。新党結成、野党との合流などは持ち出していない。こうした中で、国民党所属の立法委員の間では、両者の和解を望む声が強い。

この騒動の結果馬英九総統に対する満足度が大幅に低下している。この間、TVBSの9月11日の調査では、馬英九総統に対して「満足」は11%と就任以来の最低となった。また、年代による調査では9.2%という数字が出ている。 こうした与党内のお家騒動は、政権奪回を目指す野党第一党の民進党にとって有利なはずである。民進党としては国民党の混乱に乗じて進撃を試みてもよさそうなものだが、動きは鈍い。もともと9月15日に馬英九総統と蘇貞昌・民進党主席が、台湾と中国との間で調印されたサービス貿易協議の是非をめぐって弁論を行う予定だった。しかし、★★★王金平事件を受けて民進党はこの弁論を中止した。民進党は追撃の機会を自ら放棄してしまった。 また、17日に始まった立法院での新会期では、議場を混乱させて江宜樺・行政院長の所信表明演説ををボイコットした。王金平院長の身分が不安定となっている中で、重要議案の審議が進む目途が立っていない。こうした議事混乱が続けば、混乱を招いている民進党に対して国民から不満が高まることになりかねない。 また、蘇貞昌主席は馬英九総統に対する弾劾の提出を進めているが、現在の立法院で国民党が過半数を占めている状況の下では、可決される可能性はない。現在、立法院の定員は113議席、実際には職権停止を受けている1人を除いて112人。そのうち国民党65、民進党40、台湾団結聯盟3、親民党2、無党聯盟2である。国民党所属の立法委員が相当数寝返らなければならないが、現実的ではない。 以上が今回の経緯のざっとしたおさらいだ。政争は継続中である。

 馬英九総統がなぜこれほど、王金平院長の追い落としを急いだのか、理由はさまざまな説があるが結局のところよく分かっていない。中国とのサービス貿易協議の立法院での批准に対して、王金平院長が非協力的だったからとの見方が有力のようだ。しかし、それがこれほどの政争に発展するものだろうか。電話盗聴だけという説得力の弱い理由で起こした馬英九総統の行動に、どれだけの勝算があるのだろうか。王金平院長に対して法的責任の追及もできない状況の中で、次はどのような手に打って出るのだろうか。 ただ、「君子報仇、三年不晚」という言葉が気になる。今回の場合は8年だが、それだけ待ってようやくつかんだ尻尾を逃すことは、君子としては許されないことなのかもしれない。 いずれにせよ、台湾の政治に明るい未来は見えてこない。(早田)