粛慎

 

粛慎(しゅくしん、みしはせ、あしはせ、拼音:Sùshèn)とは、満州(中国東北地方及びロシア・沿海地方)に住んでいたとされるツングース系狩猟民族。また、後にこの民族が住んでいた地域の名称ともなった。この粛慎という呼び名は周代・春秋戦国時代の華北を中心とする東アジア都市文化圏の人々(後に漢民族として統合されていく前身となった人々)が粛慎人の自称を音訳した呼び名である。息慎(そくしん、Xīshèn),稷慎(しょくしん、Jìshèn)とも表記される。中国の周代の文献の中にしばしば見られるほか、日本の『日本書紀』の中にも粛慎の記述が見られる。中国文献中の粛慎と日本文献中の粛慎の関係性は不明。
後代の挹婁,勿吉,靺鞨,女真(満州族)と同系の民族と考えられている。

中国では、粛慎は弓矢作りの得意な東北方の異民族として描写されている。その中国史上への最初の登場は舜代に遡り[1]、以降、聖天子が中国に現れるとその徳に引かれて貢物を奉りにくるという描かれ方をしている。中国最古の書物の1つである『書経』にも粛慎の記述はある。また、『国語』など複数の書物で、春秋時代の諸侯国の1つである陳において、孔子が粛慎の弓矢について説明する逸話がある。

前漢以降は、途上に扶余国が勃興したため音信が途絶えたと見られ、粛慎はほとんど文献に見られなくなった。代わって文献中には扶余人が彼等を呼ぶ際の呼称である挹婁が多々出現するようになり、挹婁は粛慎の後裔として捉えられた。ただし、全く粛慎が出現しないわけではなく、例えば、前漢の司馬相如の子虚賦には、粛慎が登場してくるし、唐代に編纂された『晋書』には四夷伝のなかに倭人の条とともに粛慎氏の条が収録されている。子虚賦について言えば、周代について扱った作品であるから粛慎という名を使ったのである。また、晋書について言えば、実質的には挹婁を扱っているが、古典の中で用いられている由緒ある粛慎という言葉を使ったほうが雅であるとして、粛慎という表題をつけたのである。また、『大金国史』には、女直(女真)は粛慎の遺種であり、渤海の別種(又曰女直、粛慎氏遺種、渤海之別種也。)と記す。

『書経』
成王は既に東夷を討伐し、粛慎がお祝いを申し上げにきた。王の家来の榮伯は『賄粛慎之命』を作った。

『春秋左氏伝』
(周の武王が殷に勝ってから)粛慎・燕・亳は我が国(周)の北の土地である。

『国語』
(陳国の宮廷で隼が矢に刺されて死んでいるのが見つかり、陳の君主はこのことについて孔子に問うた。)仲尼(孔子)は、「隼は遠くからきたのです。これ(隼に刺さっている矢)は粛慎氏の矢です。昔、(周の)武王が商に勝ったとき、周辺の異民族に道が開け、各々(の民族)に自分の得意なものを貢物として持ってこさせることで、職能を忘れさせないようにしました。この時、粛慎氏は(楛という木)でできた矢と石弓を持ってきました。(矢の)長さは1尺1咫(およそ36cm)ありました。先王(武王のこと)はその威令と人徳が遠方まで至っているということを明らかにしようと欲し、後の人に示すため、長くこれを見定めさせました。だからその矢の端の弓の弦にかけるところに『粛慎氏の貢物である矢』と記しました。そして大姫(武王の娘)に(弓矢を)分けて、虞胡公と結婚させ、(虞胡公を)ここ陳に封じました(土地を与えたということ)。古くは、(王と)姓が同じ者には、珍しい宝物を分け与えました。親戚を重視したからです。(王と)姓が異なる者には遠くからの(それぞれの民族の)生業に応じた貢物を分け与えました。服従することを忘れさせないためです。(すなわち、遠方の異民族ですら服従するのであるから、姓が異なるからといっても、服従しなくてはならないと思わせようとした)だから陳(という周の王室とは姓が異なる諸侯)には粛慎氏の貢物を分け与えたのです。……」と言った。

『山海経』
粛慎の国は白民の北にある。雄常という名前の木がある。 晋の郭璞の注によると、粛慎の習慣として、衣服は着ないが、中国で、聖帝が即位すると、雄常の木の皮を剥いで、衣服にするとされている。

大荒之中有山、名曰不咸。有肅慎氏之國。(大荒北経)
大荒の中に不咸をいう名の山がある。粛慎氏の国がある。

『史記』周本紀
周の成王が東夷を討伐すると、息慎が来朝し慶賀を述べたので、成王は栄伯を賜い「賄息慎之命」を作った。

『後漢書』東夷伝
周の武王が殷の紂王を滅ぼすと、肅慎が朝貢して石砮と楛矢を献上した。管叔鮮と蔡叔度が周に叛き、夷狄を招き誘うと、周公旦はこれを討伐し、遂に東夷を平定した。康王の時、肅慎がふたたび至る。

『晋書』四夷伝
肅慎氏は一名を挹婁(ゆうろう)といい、不咸山(白頭山)の北に在り、夫餘から60日ばかりの行程である。東は大海(日本海)に沿い、西は寇漫汗国に接し、北は弱水(アムール川)にまで達している。その領域は東西・南北ともに数千里におよび、人々は奥深い山や谷に住んでいる。その路は険阻であり、車馬は通わない。夏の間は樹の上に住み、冬の間は地下の穴の中で生活する。父子が代々君長となる。文字はなく、口頭でもって約束ごとをおこなった。馬がいるが乗らず、ただ財産とするだけである。牛や羊はいないが、多くの豬(ブタ)を飼っており、その肉を食べ、その皮を衣とする。毛を紡いで布とする。樹の名前に雒常(らくじょう)というものがあり、中国の聖帝が新たに帝位につく時には、その木は皮を生じるので衣とすることができた。井戸や竈(かまど)はなく、瓦鬲(がれき:土釜)を作り、それに4,5升を盛って食べる。座り方は両足を伸ばして座り、足をもって肉をつかんで食べ、凍った肉を得れば、その上に座って暖める。その地には塩や鉄がなく、木を焼いて灰を作り、水を注いで汁を取り、それを食した。人々はみな髪を編み、布で襜(せん:まえだれ)を作った。その大きさは径一尺あまりであり、それで身体の前後を蔽った。結婚しようとする時には、男が女の頭に毛羽を挿し、女が結婚を承諾すれば毛羽を家に持ち帰り、然る後に礼をつくして女を娶る。婦人は貞淑であるが、女はほしいままにふるまう。人々は壮者を貴び、老人を賤しむ。死者はその日のうちに野に葬られ、木を組み合わせて小さな槨(かく:ひつぎ)をつくり、豬を殺してその上に積み、死者の糧とする。性格はあらあらしく、憂い哀しまないことをもって互いに尚んだ。父母が死んでも男子は泣き叫んだりしない。泣き叫ぶような者は壮者とは言わない。盗竊した者はその多少にかかわらず皆これを殺すので、あたりに放り出していても盗む者はいない。武器は石砮,皮骨の甲,3尺5寸の檀弓,長さ1尺数咫の楛矢[2]がある。その国の東北には石を産出する山があり、その石の鋭利さは鉄をも凌ぐほどである。これを採取するときには必ずその前に神に祈るのである。周の武王の時、その楛矢,石砮を献上した。周公旦が成王を補佐すると、ふたたび使者を遣わして入賀した。それから千余年、秦,漢が盛んになると、使者を送って朝貢することはなかった。文帝(司馬昭)が魏の丞相となった頃、魏の景元(260年 - 264年)の末に粛慎氏が来貢して楛矢,石砮,弓甲,貂皮などを献上した。魏帝(曹奐)は詔して献上物を相府[3]に贈り、粛慎氏の王には褥雞(じょくけい),錦罽(きんけい),緜帛(めんばく)を与えた。晋の武帝(在位:265年 - 289年)の太康(280年 - 289年)[4]の初めに至り、ふたたび来朝して献上した。元帝(在位:317年 - 322年)が晋朝を中興すると、また江左(江東すなわち建康)に詣でてその石砮を献上した。成帝(在位:325年 - 342年)の時に至り、後趙の石季龍に朝貢するようになり、4年で到達できた。季龍はこれを問い、粛慎の使者が答えて言った「たえず牛馬の様子を見ていましたところ、西南に向かって眠ることが3年続きました。これによって大国(後趙)の所在を知ることができましたので、やって参りました」と。
※『晋書』四夷伝の記述は挹婁時代のものである。

発掘調査でも史書の記述を裏付ける竪穴式の住居が確認されているが、これは防寒と保温を目的として地中に坑を掘る形態になったと考えられる。また石鏃や鉄鏃も発掘されているが、これも鋭利に加工され血抜きの溝が刻まれるなど史書の記述とよく合致する。

日本
日本で最初の正史の『日本書紀』にも粛慎のことが記されている。ただ、日本書紀に出てくる粛慎が、中国の古典に出てくる粛慎と同一のものであるとする確証はない。日本書紀に粛慎が出てくる箇所は大きく分けて、以下のように3ヶ所ある。
1.欽明天皇の時に佐渡島へ粛慎が来たこと
2.斉明天皇の時の阿倍比羅夫の粛慎討伐
3.天武天皇・持統天皇の時の粛慎の来訪と官位を与えたこと

日本書紀に出てくる粛慎についてどのような集団かという説はさまざまあるが、おおむね以下のようにまとめられよう。
蝦夷(えみし)と同じ。粛慎と呼ぶのは中国の古典にも出てくる由緒ある名前であるからとする。
蝦夷とも中国の文献に出てくる粛慎とも違う民族。(ニヴフ、アレウトなど、もしくは現存しない民族)
中国の文献に出てくる粛慎と同じ民族であるツングース系の民族。

また北海道のオホーツク海沿岸や樺太などに遺跡が見られるオホーツク文化(3世紀~13世紀)[5]と関連すると考える人もいる。

粛慎の訓はみしはせとする説とあしはせとする説とがあり、未だに定まっていない。見の字を略したミの音を表す変体仮名が、片仮名のアと字形が似ているため、このような混乱が生じている。

欽明朝の粛慎
粛慎についての日本での最も古い報告は、欽明天皇5年(544年)12月のものである。そこでは、佐渡島に粛慎人が来着したと書かれている。
ただ、このことが本当に起きたことかどうかはにわかには信じがたい。後の粛慎討伐の軍勢が、佐渡島の対岸の越(こし、今の北陸地方)の国から起こったことを考えると、後世の粛慎討伐の記録から後付けで作られた記録であるとも考えられる。

斉明朝の粛慎討伐
斉明天皇の時代は、さかんに蝦夷を支配下におこうとした時代であった。その一環として、越の国の国守の阿倍臣による数回の蝦夷・粛慎討伐がある。日本書紀には6件の阿倍臣による征討についての記事がある。
1.斉明天皇4年(658年)4月……180艘の船を率いて蝦夷を討伐する
2.斉明天皇4年(658年)是歳(詳しい月日は不明ということ)……粛慎討伐とヒグマの献上 参考原文・現代語訳
3.斉明天皇5年(659年)3月……180艘の船を率いて蝦夷を討伐する
4.斉明天皇5年(659年)3月分注……粛慎討伐と捕虜献上 参考原文・現代語訳
5.斉明天皇6年(660年)3月……粛慎討伐 参考原文・現代語訳
6.斉明天皇6年(660年)5月……粛慎の捕虜献上 参考原文・現代語訳

この記事に付されている、実際の日本書紀中の粛慎についての記述を見ればあきらかだが、これらの記事は、良く似た内容をもっている。例えば、討伐の期間はみな3月から4月になっている。このため、これらの討伐が実際に何回行われたかについては、諸説ある。

例えば、本居宣長は、もともと討伐は一回しかなかったとした。4年・5年・6年と3回行ったように書かれているのは、壬申の乱などによる記録の混乱で4年・5年・6年と3種類の伝承ができてしまい、日本書紀の編者がそれら3種の伝承を無批判に取り入れたからだとした。

なお、阿倍臣が粛慎討伐に向かった場所は渡島(わたりしま)と書かれているが、それがどこであるかはさだかではない。ただ、ヒグマは本州にはおらず、北海道にしかいない。そして、阿倍臣がヒグマを献上したとの記録があることから、渡島を北海道であるとする説もある。

天武・持統朝の粛慎
天武5年(676年)11月には、新羅の使節が粛慎を伴って来訪したとの記録(参考原文・現代語訳)があり、持統8年(694年)には粛慎人に官位を与えたという記録(参考原文・現代語訳)がある。この官位が与えられた粛慎は新羅の使節とともに来た者たちだと考えられている。また、持統10年(696年)には、蝦夷とともに粛慎への賜与の記録(参考原文・現代語訳)が残っている。

日本書紀中の粛慎についての記述

欽明天皇5年(544年)12月
越(こし、今の北陸地方)の国からの報告によれば、佐渡島の北の御名部(みなべ)の海岸に粛慎人がおり、船に乗ってきて留まっている。春夏は魚をとって食料にしている。かの島の人は人間ではないと言っている。またオニであるとも言って、(島民は)敢えてこれ(粛慎人)に近づかない。
嶋東禹武邑人採拾椎子、爲欲熟喫。着灰裏炮。其皮甲化成二人、飛騰火上一尺餘許。經時相闘。邑人深以爲異、取置於庭。亦如前飛相闘不已。有人占云「是邑人必爲魃鬼所迷惑。」不久如言被其抄掠。
島の東の禹武(うむ)という村の人が椎の実を拾って、これを煮て食べようと思った。灰の中に入れて炒った。その皮が変化して2人の人間になり、火の上を一尺ばかり飛び上がった。時を経て相戦った。村の人はいぶかしく思い、庭に置いた。するとまた前のように飛んで相戦うのをやめない。ある人が占って「この村の人はきっとオニに惑わされよう。」と言った。それほど時間のたたないうちに、(占いで)言ったように、物が掠め取られた。
そこで、粛慎人は瀬波河浦(せなみかわのうら)に移った。浦の神の霊力は強かった。人は敢えて近づかなかった。のどが渇いたのでその(浦の)水を飲んだ。死者は半分になろうとしていた。骨は岩穴にたまった。俗に粛慎隈(みしはせのくま)と呼ぶ。

斉明天皇4年(658年)
この年、越の国守である阿倍引田臣比羅夫(あへのひきたのおみひらふ)が粛慎を討って、生きているヒグマ2匹とヒグマの皮70枚を献上した。

斉明天皇5年(659年)3月
ある本には、阿倍引田臣比羅夫が粛慎と戦って帰った。捕虜を39人献上した。 この文は日本書紀の本文ではなく、分注に書かれている。

斉明天皇6年(660年)3月
阿倍臣<名前は不明>を遣わして200艘の船を率いて粛慎国を討伐させた。阿倍臣は陸奥の蝦夷を自分の船に乗らせて、大河のほとりに着いた。
そのとき、渡島の蝦夷が1000人ばかり海岸にたまって、河に向かって、いついていた。その中の2人が進み出て突然叫んで「粛慎の水軍が多く来て私達を殺そうとしているので、河を渡って(朝廷に)仕えたいと思っています、お願いします。」と言った。
阿倍臣は船を遣わし、2人の蝦夷を召し、賊の潜んでいるところとその船の数を問うた。2人の蝦夷は即座に隠れているところを指して、「船は二十艘あまりです」と言った。そこで、(粛慎に)使いを遣わせて呼んだが、来ようとしなかった。
そこで、阿倍臣は色とりどりの絹・武器・鉄などを海岸に置き、(粛慎に)欲しがらせようとした。そこで、粛慎は水軍を連ねて、羽を木にかけて、挙げて旗とした。(粛慎は船の)棹をそろえて近づき、浅いところに止まった。ある船の中から2人の老人が出てきた。めぐりり行って、置いてある絹などのものをとくと見た。すると、単衣替えて着て、各々布を一端持っていった。(粛慎は)船に乗って帰っていった。にわかに、老人がまた来て、服を脱ぎ、あわせて持っていった布を置いた。船に乗って退却していった。
阿倍臣は、いくつかの船を遣わして、(粛慎を)呼んだが、来なかった。(粛慎は)弊賂弁嶋(へろべの島)に帰った。しばらくして、(粛慎が)講和を請うたものの、ついにあえて許さなかった。<弊賂弁(へろべ)は、渡島の一部である。>(粛慎は)自分の砦によって戦った。このとき、能登臣(のとのおみ)馬身龍(まむたつ)が敵(粛慎)に殺された。まだ戦っていやにならないうちに、賊は敗れて自らの妻子を殺した。

斉明天皇6年(660年)5月
また阿倍引田臣<名前は不明>が夷を50人あまり献上した。もって粛慎の37人にご馳走した。

天武5年(676年)11月
3日に新羅が沙飡(ささん、新羅の8等官)の金清平を遣わし、まつりごとの様子を言上した。(中略)清平らを筑紫に送った。この月、粛慎が7人、清平らに従ってやってきた。

持統8年(694年)1月23日
務広肆(むこうし、後の従七位下に相当)等の位を唐人7人と粛慎2人に与えた。

持統10年(696年)3月12日
越(こし)の度嶋(わたりしま、渡島に同じ)の蝦夷の伊奈理武志(いなりむし)と粛慎の志良守叡草(しらすえそう)に錦でできた袍(上着)と袴・赤い太絹・斧などを下賜した。