約50年前に購入した、水野祐 著、日本古代の国家形成 講談社
この本の初版は1967年、私が所有するのは昭和48年(1973)版。
購入の目的は 早稲田大・水野祐教授の 三王朝交代説 を読みたくて購入。
この本にて 水野博士は p109~p110にて、【 そこで日向から大和へ初代天皇の東征という物語が加えられたのである。だからといってこの加上された部分が、そのときになって創作された伝説というのではない。それは以前からあった別の伝説をもって、初代天皇にふさわしい伝説をつくりだしたものである。事実無根のことであるなどといってしまうことはまた誤りである 】
この当時 パソコン用語の上書きなどの表現は無いので 加上 と表現。 すでに 上書き説は提示されていた。
約50年ぶりに再読して 水野博士の凄さを発見できた次第です。 当時の私は 王朝交代説1952の方に関心があり、神武に関する記載を読み飛ばし。
水野氏 1967時点では考古学は寄与していないという見解。
現在との違いは 50 年間の考古的知見の増加と日本書記へのα・β群の分離が可能になった文献史からの進歩。
水野氏が生きておられたら 間違いなく 考古学と文献の進展を利用されたことは間違いの無いところ。
考古学はヤマト中心史観・編年からの離脱。特に古墳時代前期。
文献史からも 古田武彦氏が提唱したチクシ王権と ヤマト王権の並立する時期に応じた、ヤマト中心史観からの離脱。
文献からの解明で、雄略以前とそれ以降の間に、画期がある事は明白。
考古学側も 見かけ上の古墳サイズに惑わされることなく、古墳時代後期・定型化須恵器の各地への拡散こそ 倭国統一化への第一歩と見るべきなのでは? それ以前は各部族 割拠。
都出比呂志博士の 古墳形状からのヒエラルヒー図 というヤマト中心の古墳展開は、古墳時代前期に関して 通用しない。と理解すべきなのでは?
三重 明和町の坂本1号墳は7世紀の前方後方墳、古墳ヒエラルヒー図では説明困難。 三重の最初期墳丘墓は 前方後方墳 日本全国 ほとんどの地域の最初期墳丘墓は 前方後方墳型周溝墓か前方後方墳。 吉野ヶ里地地区や北東北でさえ 同様。
古墳祭祀の変化
古墳時代前期 原則 石槨内・棺内に納められなかった土師器。
古墳時代後期 須恵器は石室内へ納める、という変革。
それは畿内ヤマト政権(河内・泉北古窯の統括者)が推し進めた。
須恵器の定型化 その変化が各地の須恵器で同期推移したと認められるのであれば、それは各地の部族王・在地支配者による須恵器の採用。用途は畿内系横穴式石室内での葬具。
各地、部族王 葬送祭祀の変更。強いられたのか 自らが 望んで採用したのか? 豊橋の後期古墳のように横穴式石室を採用していても、前期古墳と同様に一度限り、追葬をしていない古墳。それは 被葬者後継者の保守性。
倭の五王の中国南朝への上表文のように、全国統一を推し進めた時期 それは、定型化須恵器の全国展開と同期。 AD400年前後。
AD450年前後 在地支配者は 古墳設計・指導員と須恵器工人を受け入れて 子女や子息をヤマト政権に預けた(質)。
埼玉・稲荷山古墳 杖刀人 ヲワケの臣の親族 非主体部出土
熊本・江田船山古墳 典曹人 ムリテ
AD528磐井の乱の 磐井もかつて倭王権の王都勤務、磐井を討った大伴金村・物部の麁鹿火達も、畿内かチクシを勤務地として オオキミに従っていた。 筆記用具の出土からはチクシ説が優位か?
福岡・飯塚市の川島古墳群
盟主は前方後円墳、谷を隔てて後期古墳群、高句麗系?天井持ち送り石室、一部に壁画。
群集墳側は いまだ畿内系横穴式石室を未採用。
福岡・うきは 日の岡古墳
近くの月の岡古墳は巨大石棺へ小石積みの石槨。河内・大仙陵古墳と同様の石室構造。
日の岡古墳は胴張石室 副室を伴う九州系横穴式石室。
胴張横穴式石室は 全国 スポット的に展開。 横穴も全国、スポット的に展開。 鎌倉期の地頭のように 支配者的立場で乗り込んだのか、北魏のように 徒民政策で強制移住させられたのか?
石室内に壁画を描く人達も南東北・関東へ移動している。
畿内の古墳にて出土の 阿蘇溶岩石材を用いた石棺(ピンク)、極めて遠距離運搬、それは畿内の古墳被葬者の一部、中九州の出自。
ピンク石の石棺 高槻・今城塚古墳でも出土。 6世紀初頭 3つの石棺 記紀は記していないが 古墳時代中~後期 の畿内地区の支配者層の墳墓 ピンク石石棺が一定程度出土。 地元竜石や石上の石材と並んで出土、それは妻問い婚の反映か? それとも被葬者が女性なのか?
雄略や彼の父親・允恭の妻 先代のオオキミの子女。母系系譜で王権継続。 継体も先帝の妹を妻に迎えて首長権を得ている。
畿内勢力の全国制覇の時期、それは日本国の成立の時期。
唐(周)の則天武后が認可した日本国、隋書が示すように小国・日本が、たぶん白村江敗戦後の唐進駐軍の管理下、倭国を統合した。
10世紀の宋王朝への 日本からの渡海僧・奝然、 が提示した「王年代記」の方が 古代末・中世出現の古事記や日本書紀より 天皇系譜の改変が少ない文献なのでは ?
水野博士の三王朝交代説 崇神・仁徳・継体王朝は 畿内を視点に考察、 1952年の視点より 10世紀の中国・宋史に記載された王統譜の方が より正確なのでは?
チクシ王朝、 チクシの神武の東征 ヤマト土地開発。
倭国の盟主争い、 チクシ、イズモ(含む越以東地域)そしてキナイの在地勢力による盟主入れ替わり、各地の部族が 奈良盆地で勢力争い。 天下取り
競争地は 奈良盆地。 各部族ごとに 様々な土地開発ノウハウの開陳。 組織力/動員能力そして技術力が 競争の見せ所だった。
この組織化が 倭国統一への契機、 雄略期 いちどは統一化。
各地部族の王は いまだ独立性確保。
磐井の乱後 再度 統一化。
王朝 ・方形の王都区画。王権維持組織・官僚。レガシー製造工人
税納入・使役対応への長期居住者。 王墓
水野説の崇神朝(奈良盆地東南麓地区の墳墓)は、王都、官僚、工房工人、収奪対象の居住者が見えない。
古墳時代前期は 奈良盆地東南麓 倭国部族の墓域
中期 奈良西部 葛城に王都
後期 庶民墓は宇陀など盆地周辺へ追いやら
れ 見瀬丸山古墳が橿原に築造
末期 王墓は 上円下方墳や八角形墳墓
奈良盆地 律令期の王都は 藤原京 遅れて 平城京
すなわち 倭国部族連合時代の王都 葛城王都。
博多・那の津
大阪 法円坂
日本国の王都 藤原京 近江京/長岡京
平城京 平安京
チクシ朝 葛城朝 雄略・カワチ朝 継体朝 唐進駐軍期 天武朝
DNAは 同じモンゴロイドでも 王都の変わる毎に、DNA変わっていった。
統一は 倭国部族連合期 数回?
日本国成立 唐進駐軍期
水野祐博士は 天武期すでに 萬世一系/神国思想を当時の支配層・貴族が志向していた。という見解のようですが、神の国/
萬世一系 という思想は 近世の産物なのでは?
古代天皇の暗殺事例、室町時代の後南朝の皇子への暗殺。
室町期でも天皇の家族は殺害されている。本当の神様と信じていれば殺すことなどできないのでは?
萬世一系を求めたのは、家康を神格化したい朱子学の方なのでは?
神の国/萬世一系 という言葉は 近世に増加。
元・安倍総理もいた 日本会議グループが 神の国を志向する理由の一つ、
それは天皇制を利用して 再軍備をしたい 親族の勤務先(軍需産業)という 旧式な資本主義の反映。
日本も米国もイスラエルも同様の ハゲタカ資本主義の影響で、好戦的な政府が発生しやすい。