こんにちは。
ハイ・パイン・サンキュー!です。
いつもとなりのかがわさんをお読みくださり、ありがとうございます。

 

暖かくなったと思うと、また寒くなり、また暖かくの繰り返し。

高松の桜が開花したそうなので、いよいよ春がきたというかがわです。

 

いつかはそこを訪れたことをまとめて書いてたいと思っている場所があるのですが、今回はその一つです。

しかしながら、驚いたことに今回の高松平家物語歴史館は、この記事を書いている時点で閉館してしまっています。

弊館こと、来る平成31年3月24日を以って諸般の事情により閉館させて頂きたくお知らせ申し上げます。

平家物語歴史館のHPより(←リンク切れました…)

屋島の源平古合戦なんかを巡った後に、行ってみようと思っていたのですが、閉館のお知らせを知り、最終日に急遽訪れてきました。

特に平家物語にも、ろう人形にも詳しくはないのですが、高松市にあった高松平家物語歴史館の様子や、日本最大のろう人形館なんかに、もしご興味がおありでしたら、お読みください。

 

 

平家物語歴史館にはろう人形

来たことのある方以外は、ほとんどご存じないだろうから、場所から説明しておきます。

まあ、この後訪れる方もいないだろうから、地図だけ。

 

 

高松市の北部、湾岸部にありました。

 

 

JR高松駅からは東へ2㎞ほど。県立中央病院や、観覧車やプシプシーナ珈琲のある方面です。

(実はこの日もプシプシーナに行く予定が、急遽歴史館に…)

 

 

 

何があるとも表現しにくいところですが、浜街道の北側、工場などが立ち並ぶ場所です。

どうしてこの場所に平家物語歴史館があるのかは、僕はよく知りません。

しかし、かがわさんから、自治体や公共団体が管理する施設ではなく、個人の方が経営しているのだと聞いたことがあります。

 

 

 

 

あまり人がいない雰囲気を想像していましたが、営業最終日ということで何組かお客さんが入っていました。

 

 

僕は今回も含めて合計3回訪れていますが、この入り口でチケットを購入したのは1度のみ。

ぐるりと回って右奥の方へ向かいます。

 

 

中に入ると、お土産コーナーや休憩コーナーのような場所があります。

 

 

入場料は大人1200円。今回は奥さんも行ったので、2400円でした。

 

 

後から知ったのですが、3月24日は平家が滅亡した「壇ノ浦の戦い」の日だそうで、記念に写真を撮りました。

左の扉から中に入って見ていきます。

 

 

こちらの入り口から入った記憶もあれば、違う順路だった思い出もあり、やや混乱するところ。

最初は四国の偉人たちのろう人形があります。

 

 

左の方には、弘法大師や野球選手がいたのですが、撮り忘れてしまいました。

知らない方もいれば、聞いたことのある方もいます。

 

 

一人ずつ解説がついているので、へえ、そうなんだと読みながら進みます。

 

 

 

振り返ると文学のコーナー。

 

 

写真でしか見たことがなかったけれど、こうして実物に近い人形だと、また印象が変わってきます。

 

 

奥が鏡になっているので、紅白のボードが見えると思います。

背後には源平合戦の説明がありました。

ろう人形を見るか、説明を見るか迷うところですが、僕は説明の写真を撮ったので、またじっくり読んでみたいところです。

 

 

モラエスさん、ジョン万次郎さんなど、四国ゆかりの方がおられます。

 

 

そして、龍馬さんと中岡さんがおられます。

銅像だと、大きいし少し遠いからわからないけれど、近くにいるので親近感が湧くろう人形です。

 

 

以前に来た際には、気に留めなかった猪熊弦一郎さん。

写真なんかで拝見することありましたが、実際にキャンバスに向かっていると、今にも手が動き出しそうな雰囲気でした。

 

 

お隣には高浜虚子さん。

 

 

最初の正面入口から入ると、最初に龍馬が来て、その他にという順路だったのですが(確かにその印象がある)、いつからか、順路が変わっていたようです。

 

 

この後階段を上り、二階源平の展示ゾーンに入ります。

源平合戦の各場面をろう人形で再現

階段を上っていくと、いきなり大迫力の一場面が現れます。
 

第十景 一ノ谷の合戦

 

 

 

↑上のような説明ボードがそれぞれについているので、読みながらふむふむと眺めることができます。

第十景 一ノ谷の合戦
寿永二年(1183年) 木曾義仲が都にせまり、平家は安徳天皇を奉じて都を落ちた。
しかし、入京した義仲は後白河院と対立、院は源頼朝に義仲追討を命じた。
頼朝は、二人の弟、 範頼と義経を大将として軍勢をさし 向け、義仲は近江で討死した。
一方、 平家は屋島(高松市)を本拠とし、福原(神戸市)の一ノ谷に堅固な城砦をかまえ、多くの軍勢を集めた。

翌年二月、源氏は、海沿いの東西から一ノ谷を攻撃、激戦となった。
し かし、義経が精鋭をひきい、背後の絶壁をかけおりて奇襲を加 たため、難攻不落と見えた城砦もついに落ち た。
 『平家物語』巻九「坂落」

 

 

 

 

一ノ谷にはもちろん行ったことはないけれど、義経や弁慶がこんな感じで降りてきて奇襲を受けたなら、怖かっただろうなと思います。

 

続いて、第一景「平忠盛、鬼を捕らえる」。

 

 

第一景 平忠盛、鬼を捕らえる
白河院は、東山の麓に住む祇園女御という女性を寵愛されていた。

あ る夕方、数人の供をつれて行くと、 光を発する鬼のような者に出会った。 

供の者はおびえたが、平忠盛が捕ら えてみると、年老いた法師であった。

灯籠にお燈明をあげようとして土器に火を入れて持ち、雨よけに麦わらを丸めて笠のようにかぶっていたので、異様な髪が光って見えたのであった。

白河院は、褒美に祇園女御を忠盛に下されたが、彼女は院の子を身ごもっていた。

そうして生まれたのが忠盛の嫡男、平清盛で、清盛が異常な出世をとげたのは、天皇の子だからであるという。
「平家物語』巻六「祇園女御」

 

特に場面の解説したり、感想を言ったりすることもないので、さくさく進みます。

ところどころにこうした開設のボードがあって、時代背景や物語のあらすじが書いてあるので、ついつい立ち止まって見てしまいます。

 

 

第二景「平氏にあらずんば人にあらず」。

 

 

 

第二景 「平家にあらずんば人にあらず」
平安末期、天皇や貴族は、武力(武 士)を用いて争うようになった。

保元の乱と平治の乱が起こ った。

平清盛は、二つの合戦に勝って異常な出世をとげ、仁安二年(1167年)には太政大臣になって、位、 大臣をきわめた。

清盛の嫡男、重盛はもちろん、一門の多くの人々も高級貴族になった。
そこで、清盛の妻の兄、大納言・平時忠は、「平家に あらずんば人にあらず」と高言した。
背景の厳島神社は平家の氏神で、今 につづく壮麗な社殿は清盛が創建し たもの。
なお、清盛は、仁安三年の大病後、出家して浄海と名乗った。
「平家物語』巻一「禿髪」「吾身栄花」

 

奥の角の方にはもう何年もやっていると思われる「平家物語の女たち」のパネル展。

前回来た時も、その前にも同じ展示だった記憶があります。

 

 

第三景「仏御前、祇王を訪ねる」。

 

 

第三景 仏御前、祇王を訪ねる
平清盛は、白拍子の祇王を寵愛し、妹の祇女と共に自分の邸に住まわせた。
しかし、祇王のとりなしで 「仏御前」という若い白拍子に会った清盛は、たちまち仏御前に心を移し、祇王姉妹を邸から出した。
しかも、 仏御前を慰めるため、祇王を呼んで 歌わせた。
祇王はあまり辛いので、 母・妹と共に尼になり、嵯峨の奥へ隠棲した。
すると、やがて仏御前が 訪ねてきた。
彼女も、祇王の身の上を他人ごとと思えず、尼になって来たのだった。
四人の女性は、同じ所に篭もって一心に往生を願ったので、みな、往生の本望をとげたという。
『平家物語』巻一「祇王」

 

一つ一つの場面はカーテンのようなもので区切られています。

 

 

この辺りまではそんなに怖い場面はないのですが、この後は少し怖いところがあって、子どもが小さい頃に連れてきたら、「早く帰ろう、早く出たい」と言われたのを思い出しました。

 

第四景 「清盛の孫、摂政・基房を辱める」

 

 

 

 

第四景 清盛の孫、摂政・基房を辱める
平重盛の次男、資盛は、まだ十三歳だが位は三位中将だった。

鷹狩の帰り、参内しようとする摂政・藤原基房の行列と出会ったが下馬の礼 をとらず、家来たちと一緒に駆け破 って通ろうとした。
基房の家来たちはその無礼を怒り、彼らを馬から引き落とした。

これを聞いた清盛は激怒し、六波羅の武士たちに、「資盛の恥をそそげ」と命じた。
その結果、資盛たちが基房の行列をおそって辱めた。

摂政・関白がこんな目にあったことは前代未聞である。 

重盛は驚いて武士たちを追放し、資盛を伊勢国へ追いやった。
『平家物語』巻一「殿下乗合」

 

その向かいには、第五景 「俊寛のみ赦されず」。
後に知ったのですが、彼をテーマにした菊池寛や芥川龍之介の小説などがあるのですね。

そういえば高校生くらいの時に、残酷な場面だなあと読んだ記憶があります。

 

 

第五景 俊寛のみ赦されず
治承元年(1177年)平家を倒す企てが露見した。
鹿谷の陰謀とい う。

その結果、斬られた人もいるが、法勝寺座主の俊寛僧都、丹波少将藤原成経、平判官康頼の三人は、九州の鬼界が島へ流された。
翌年、高倉天皇の中宮、建礼門院(清盛の娘) の安産を願って恩赦がおこなわれ、赦免状をもつ使者が鬼界が島へ来 た。

しかし、赦免状には俊寛の名はなかった。
それほど、清盛の憎しみは深かったのである。
俊寛は、「せめて九州へ連れて行ってくれ」と船を追うが、とうとう聞かれなかった。
俊寛は、居ること三年にして、ついに絶命した。

 「平家物語』巻三「赦文」「足摺」

 

何となく動きが出てきて、人形の表情なんかもリアルな感じ。

 

第六景 「物怪」。

 

 

 

第六景 物怪
桓武天皇が平安京(現在の京都 市)を建てて以来、都を遷すことはなかった。

帝でさえ遷されなかったのに、治承四年(1180年) 六月、 人臣の清盛が、都を福原(現在の神戸市)へ遷した。
人々は動揺し、旧都の内裏にこんな歌が書かれた。
咲きいづる花の首をふりすてて
風ふく原のすえぞあやふき
はたして、新都では、いろいろな怪異が出現した。

清盛の邸では、壁に どく 「大顔」が現われたり、庭に多くの髑髏が現れたりした。
この遷都には、 帝も臣下も嘆き、すべての寺も神社 もよくないと訴えたので、同年十二月、清盛はついに旧都へ帰った。
 『平家物語』巻五「物怪之沙汰」

 

ちょっとしたお化け屋敷にいるような気持ちになってきますが、ここは平家物語歴史館です。

 

第七景 「平家軍、富士川で大敗」。

 

 

第七景 平家軍、富士川で大敗
治承四年(1180年)五月、後白河院の第二皇子、以仁王と源頼政は、諸国の源氏に平家追討の令旨を発し、兵をあげたが、敗死した。
しかし、諸国の源氏は決起した。
伊豆に流されていた源頼朝は、石橋山合戦で敗れたが、房総で大軍を集め、関東の武士を加えて、鎌倉へ入った。
一方、平家の軍勢も東下、十月、富士川をはさんで頼朝の軍勢と対峙し た。
しかし、源氏が大軍なので、夜、退くことにした。
その時、源氏の一隊が渡河しようとし、水鳥の大群がいっせいに飛び立った。
平家軍は、「すわ、大軍来襲!」と驚きあわて、一戦に及ばず逃げ去った。
「平家物語』巻五 「富士川」

 

第八景 「平重衡 大仏を焼く」。

 

 

 

第八景 平重衡、大仏を焼く
以仁王が兵をあげると三井寺が加 勢したが、年末には、奈良の僧兵七 千余人が立ち上がった。

清盛は、わが子、頭中将・重衡を大将として、四万余騎で攻めさせた。
夜になると、 重衡は民家に放火させた。
火は奈良盆地を吹きまわって、興福寺をはじ め多くの寺を焼いた。
なかでも悲惨 だったのは東大寺の大仏殿で、大仏 が溶けくずれ、二階へ逃れて、敵がはしご昇ってこないようにと梯子をはずし ていた老人や子供千七百人が焼け死んだ。
まさに焦熱地獄であった。

こうして、多くの貴重な経典や仏像が失われ、焼死者は三千五百余人に達 したという。
『平家物語』巻五「奈良炎上」

 

第九景 「清盛、高熱を発して死去」

 

 

第九景清盛、高熱を発して死去
治承五年(1181年)になると、平家への反乱が各地にひろがった。
すると二月末、清盛が高熱を発した。
ただ「あたあた」と言うばかりである。

水槽に入れれば湯になってしま い、水をかけても湯気になって体に当たらない。
霊験あらたかな神社・仏閣に宝物をささげ懸命に加持祈祷をおこなったが、回復の見込みはまったくない。
妻の二位殿が遺言をたずねると、次のように言った。

「現世の望みはすべて達せられた。ただ 一つ思い残すことは、源頼朝の首を見なかったことだ。その首を私の墓前にかけよ」。

そして閏二月四日、ついに他界した。

享年六十四歳。 

「平家物語』巻六「入道死去」

 

もうだんだん飽きてきた気もしますが、もう少し続きます。

第十一景 「平敦盛と熊谷直実」。

 

 

第十一景 平敦盛と熊谷直実
平家の人々は、一ノ谷の合戦に敗れると海へ逃れた。
源氏の熊谷直実が追っていくと、黄金造りの太刀をはいた立派な武者が一騎、沖の船めざして海に乗り入れていた。
直実が「返しなさい」と呼びかけると戻ってきたので、すぐさま組み伏せ、兜 を上げてみると、わが子と同じ十六、七歳の美少年である。
名を尋ねても 「首を取って人に見せれば、知っていよう」と答えるばかり。
助けよう としたが、源氏の武士たちが来るので、泣く泣く首を斬った。
若武者は平敦盛といい、清盛の甥で、笛の名手であった。
直実は武士の身を嘆き、のち仏門に入った。
『平家物語』巻九「敦盛最期」

 

敦盛のこの場面を知っているような気持ちになるのは、きっと中学校くらいの教科書に載っていたからだと思います。

 

第十二景「那須与一、扇の的を射る」

これを待っていました、屋島の戦いの名場面、那須与一が的を射る場面。

 

 

第十二景 那須与一、扇の的を射る
寿永四年(1185年)二月、源義経は、背後から屋島を急襲した。
平家は驚いて船に乗り移ったが、敵が少数と知って激しく戦った。
夕方に なり、合戦が止むと、小船が一艘、漕ぎ寄せてきた。

扇を竿の先に立て、傍の美しい女が陸へ向かって手招きをしている。
義経は、那須与一宗高に「扇を射よ」と命じた。
与一は馬を海へ乗り入れたが、北風が吹き、扇は揺れている。
源平両軍は、固唾を飲んで見守っている。
与一は、ついに「南無八幡」と念じて鏑矢を放 った。

見事、扇は空へ舞い上がり、ひらひらと落ちた。
両軍から、どっ と歓声が上がった。
「平家物語』巻十一「那須与一」

 

イメージより随分近い気がしますが、ますます現地に行って見てみたくなるところです。(その後行きました)

 

 

 

2021年に「偉人にチャレンジ」というBSの番組で、「那須与一は扇の的を射抜いたか」という企画がありました。
波があって、遠く、これは大変、という感じでした。

 

第十三景「安徳天皇 入水」。

 

 

第十三景 安徳天皇、入水
屋島の合戦に敗れた平家は、西へ逃れ、関門海峡近くの彦島に水軍を結集した。

源氏は海戦は不得手であ ったが、水軍をもつ豪族を味方につけ、いよいよ壇ノ浦で平家に決戦を挑んだ。
はじめは平家が優勢であっ たが 潮の流れが逆になると、源氏が平家を圧倒した。
二位尼(清盛未亡人)は覚悟をきめ、まだ八歳の安徳天皇を船ばたへお連れした。
天皇は、尼に言われるとおり、東、伊勢神宮に小さい御手を合わせ、次に、西へ向かって御念仏を唱えた。
尼は、涙を流しながら天皇を抱き上げると、「波の下にも都がございます」とお慰めして入水した。
『平家物語』巻十一「先帝身投」

 

第十四景 「平経盛、凄壮な最期」

 

 

 

第十四景 平教経、凄壮な最期
平家の武将、能登守教経は、矢を射尽くした上、大太刀と大長刀を左右の手にもって斬りまくった。

総大将・平知盛が、「たいした敵でもないのに、あまり罪作りなことをなさるな」と使いを寄こすと、「敵の大将と組めというのだな」と、義経を求めて敵船につぎつぎと乗り移った。

偶然、義経を見つけたが、義経は味方の船に飛び移って逃れた。

教経は諦めて武器も兜も捨て、「さあ来い」 と大声をあげた。

力自慢の安芸太郎・次郎兄弟と家来が一緒に斬りつけたが、教経は家来を蹴落とし、兄弟を左右の脇にはさんで海へ飛び込んだ。

行年二十六歳。
『平家物語』巻十一「能登殿最期」

 

何となく見ているだけで物悲しい気持ちになりますか、いよいよ最後の場面。

 

第十五景「平家の滅亡」。

 

 

第十五景 平家滅亡
平家の心ある武将は、みな海へ身を投げた。
総大将・平知盛(清盛の四男)も、「見届けるべきことは見おわった。今は自書しよう」と言って、乳母子の伊賀家長と共に、鎧二領を身につけて海に沈んだ。
これを見た家来二十余人も、手を組み合って水中に没し、あの世への供をした。

こうして、平家は滅亡した。
前内大臣宗盛(清盛の三男)や大納言時忠 (清盛の義兄)など、生捕りになった人もいるが、のちに斬られたりした。
戦いすんで日が暮れて、壇ノ浦に静寂が訪れた。
それは、滅びしものへの鎮魂のようである。
「平家物語』巻十一「内侍所都入」

 

第十六景「祇園精舎の鐘の音」

 

 

第十六景「祇園精舎の鐘の声」
建礼門院は、わが子、安徳帝の後を追って入水したが、源氏の武士に引き上げられた。
都へ帰ると落飾して尼になり、やがて、人も訪れぬ大原の里の寂光院の傍に小さな庵室をつくって、安徳帝と一門の人々の菩提を弔う毎日をおくった。
文治二 年(1186年)後白河院が大原に御幸、女院の庵室をご覧になると、
おもひきや深山のおくにすまひして
雲ゐの月をよそに見んとは
という御製の歌があった。
間もなく 墨染の衣を着て帰ってきた女院は、院に、「生きながらに、天上・人間・ 餓鬼・修羅・地獄・畜生の六道をめ ぐりました」と、しみじみと語った。
かんじょう 「平家物語」「灌頂巻」

 

子どもの頃や若い時には湧かなかった感情がありますね。

 

第十七景 「琵琶法師」。

 

 

 

第十七景 琵琶法師
吉田兼好は「徒然草』の中で、『平家物語』は、後鳥羽院のとき、信濃前司行長が作って、生仏という盲目の法師 に語らせたと書いている。
しかし、他の作者の名をあげている本もある。
おそらく、鎌倉初期に「平家物語』の原形ができ、その後、さまざまに手が加えられたと見られている。
したがって、多くの要素が巧みにまとめられている。
決定的な性格は、盲目の琵琶法師が民衆に聞かせたことで、現在のように、ひとりで黙って読む小説とは違う。

室町初期、京都には数百人の琵琶法師がいて、『平家物語』を語ったという。


「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。

娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。

おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。

たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に 同じ。」


『平家物語』の冒頭。巻一「祇園精舎」

 

これで展示は終わりで、階段を下りて入ってきたところに戻ります。

じっくりと説明を読んでいたら、1時間くらいかかったと思います。

 

 

ドラマや映画、本なんかと違って、等身大の人形で平家物語の世界観を見られてよかったです。

もう閉まってしまって、HPを見たらろう人形も販売してしまうそうなので、いろんなところに散逸してしまうのですね。

またどこかで、ここで見たろう人形が見られたらよいなと思います。

 

それでは、今日はこの辺で。

 

いつもお読みいただき、ありがとうございます。

 

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