試験前にSNSを徘徊し、漫画アプリを読み漁り、じわりじわりと首を絞められるように追い詰められていく中で「生」と感じることは、昔から変わらないことである。しかしながら、文章を書くという活動は、昔のようにやらなくなってしまった。そもそも文章を書こうという気持ちさえ起こってこなかったことに、いま気づいたほどである。やはり、私の中で文章を書くという活動と彼女との関係は一体のものだったのだろうと思う。私が再び筆というかフリック入力に手を伸ばしたのも、彼女の影響によるものなのだから。

 私が彼女に、つまらなくなった、と言ったとき、私は少なからず彼女を傷つけようという気持ちを持っていたように思う。それが彼女の最も嫌う言葉だと思っていたからだ。しかし、言わずにはいられなかった。彼女は私の好きな人であると同時に憧れだったのだ。彼女のすることはすべて素敵に見えて、彼女は私の欲しい才能を持っていて、彼女は社会とは別の場所にいた。そんな彼女が社会という俗物に染まってしまった気がした。そしてそこには、自分以外の男の存在があった。それがどうしても自分には我慢ならなかったのだと思う。
 とは言え、あまり言葉を重ねても仕方ない。あの日を、私の方は伝えるべき言葉をすべて用意して迎えていたからだ。あの日より前のことをあの日から随分経ったいま書いたところで、どれも真実ではなく本物ではない。あの日までに溜められ続けた想いと言葉は、あの日に伝えたものがすべてである。だから、いま書くべきはあの日よりも後の出来事についてだろう。
 あの日が過ぎてからの日々は、大会があったり、文化祭があったりと忙しくて彼女を思い出すひまがなかった。しかし、10月の彼女が東京に来るかもしれないと言っていたときは、よく彼女のことを思い出していた。彼女が行くと言っていた場所に訪れてみたり、いつもより遠回りして彼女が現れないかと期待してみたり。あげく、夢の中に出てきて会いたすぎて泣いたらしい。そして11月末に彼女に連絡を取った。どうやら彼女の環境が変わったらしいので、心配になったからだ。嘘だ。それもあるが、彼女と話すきっかけを探していたのかもしれない。ともあれ、彼女と話していく中で自分の中で彼女に対する恋愛的な好きはなくなったと感じていた。しかし、クリスマスの予定を聞かれたらワクワクしてしまったし、電話で他の男の話をされたら嫌な気持ちになってしまった。私はその状況を、嫉妬とか執着とかそういう負の感情が付き纏っていると名付けた。実際、クリスマス当日は話の流れにあったように、サンタコスをして出かけてしまった。しかもそのような話の流れがあったことをいま思い出した。無意識下で意識しすぎである。閑話休題。そして、前までは彼女と哲学的なテーマについて話すことが好きだったが、いまはそれにあまり興味のない自分に気づいた。自分の変化と共に昔の素敵な思い出が汚れてしまう感じが嫌だった。そこで、やはりもう連絡は取らない方がいいという結論に至った。もうお互いに別の道を進んでいて、しかも私はいま自分が進んでいる道を気に入っているのに、彼女は悪気なく私の進む道を動かそうとして、というか向こうの言動をこっちが勝手に解釈して動きたくなってしまう。いまは、もうお互いの進む道は交わり合うことがないんだと割り切っていまの自分の生活を大切にしていくのがベストだと思った。未消化な思いはすべて消化したが、その後に続いていた余韻をきちんと処理できてよかったと思った。
 しかし、1月になると彼女に偶然会った。もうお互いの進む道は交わらないのではなかったのか?その日の夜、SNSで流れてきた、東京にいる彼女の写真に、かっこよさを感じた。だが、やはりもう彼女への気持ちはなかった。彼女からの電話を断って、それを確信した。昔の私なら断らなかっただろう。

 私のスタンスは、自分の想いを正確に伝えるために言葉を尽くし続ける、だ。言葉の持つ多面性、言葉の核から滲む色、言葉から想起されるイメージ、それらがお互いを補い合い刺激し合い、浮かび上がってくる像は、たとえボロボロでぐちゃぐちゃでも、自分の想いを最も正確に伝えていると思う。無論、あえて言葉にせず胸に留めて置くこともある。だが、内なる想いは言葉となって解き放たれた。あの頃の、彼女といた頃の私が、とても人間的で素敵で生きていたことを思い出してしまった。たとえそれが私にとっての地獄を孕んでいるとしても、もう一度巡り合うのも悪くはないと思ってしまった。あの垢名に惹かれて読んだ文章が、また新たな文章を生み出した。今度この文章が届いたらどうなるのか、私にはわからない。だが、幸福な結果をもたらすことを願う。