【産経抄】産経新聞より | 【かほり放送局】

 東京の上野駅に初めての「就職列車」が着いたのは昭和29年春のことである。青森発だった。地方の中学校を卒業した少年・少女(金の卵呼ばれた)たちがまとまって都会に出てくる集団就職が始まったころだ。以来、上野は彼らが東京に一歩をしるす玄関口となった。

 ▼その集団就職パワーがその後の日本の経済発展を支えた。茨城県から東京の古書店に就職した直木賞作家、出久根達郎さんは以前、産経新聞の取材に「暗いイメージはなかった」と答えている。「自分たちが日本を支えているんだという自負心があった」とも語っていた。

 ▼それでも、都会や職場になじめない若者たちが上野駅辺りを徘徊(はいかい)することもよくあった。ここが故郷との接点だったからだ。駅員たちはそんな少年・少女をみかけると、駅長室に連れてきて、激励会を開くなどしたのだという。昭和40年前後の話である。

 ▼そういう席に呼ばれて「あゝ上野駅」を歌っていたのが井沢八郎さんだった。ずばり集団就職の歌だが、歌詞はタイトルほどセンチメンタルではない。「くじけちゃいけない」と、社会から脱落しそうな子供たちのシリをたたく。そんな前向きな「応援歌」だった。

 ▼いや彼らだけでなく、日本社会全体への「応援歌」だったのかもしれない。だからこそ、集団就職や就職列車がなくなった後も、オジサンたちにカラオケで歌い継がれた。新幹線が走り上野駅の雰囲気がガラリと変わってからも、歌だけは生き続けてきたのだ。

 ▼その井沢さんが69歳で亡くなった。自身も若くして青森から歌手を目指し上京している。集団就職世代の最年長の人たちとほぼ同じ時代を生きた。「戦後」の文字でくくると、先日亡くなった即席ラーメンの安藤百福さんとも姿がダブって見える。