私が初当選させていただいた同じ年の同じ月に、新日本プロレスの矢野通選手が観光大使に委嘱されました。
登別市観光大使のタスキをかけて入場している矢野選手をみて、物凄く嬉しかったことを覚えています。
矢野選手を観光大使として委嘱したにもかかわらず、何の動きもない登別市に対して、私が市議会議員になる前からずっと感じていた、登別市のスポーツやエンターテインメントへの無関心というか無理解を、なんとか変えていかなければならないと思いました。
私は、
登別からプロレス文化を発信したい
と思い、道場を設立したり、数々のプロレス興行を開催してきました。
しかし、登別市から背中を押されることはなく、バックアップももちろんなく、いつも歯痒い思いをしていました。
新日本プロレスというメジャー団体の選手が、登別市の観光大使になってくれた。
私は、とんでもなく強力な援軍を得たような気持ちでした。
これは登別市にとってもチャンスだし、もっと活かさなければならない。
その想いからの、一般質問での提案や提言でした。
そのときの一般質問では、新日本プロレス登別大会開催についても提案しています。
登別市PRキャラクター登夢くんを矢野選手のセコンドに付けての入場や、プロレス会場での登別市パンフレット配布なども、提案しています。
矢野選手の協力
新日本プロレスの協力
により、数々のことが実現しました。
私がアイデアを出した、ふるさと納税コラボ返礼品も実現していただきました。
スポーツやエンターテインメントに対して、登別市の考えが変わってきたことを実感するとともに、議員として提案したことの実現に、とてもやり甲斐を感じました。
充実感がありました。
しかし、新日本プロレス登別大会開催が実現していないことに、もどかしい思いもありました。
私には組織や組合などがついているわけではなく、市議会議員2期目を目指したとしても、当選は難しいだろう。
そう感じていた私は、1期目の4年間で、新日本プロレス登別大会開催を実現させたかったのです。
コロナ禍などで、プロレスの大会自体がおこなわれない期間もあり、こればかりは仕方がないと思うしかありませんでした。
予算委員会や決算委員会でも、私は必ず観光大使である矢野選手の活用について、登別市に質問・質疑、提案・提言をしてきました。
新日本プロレス北海きたえーる大会に、登別市観光PRブースを設置して、市職員と一緒にパンフレット配布をしたとき、あっという間にパンフレットがなくなりました。
みんなが登別市に関心を寄せ、パンフレットを受け取ってくれたのです。
矢野選手がタスキをかけて入場してくれたり、選手コールでリングアナウンサーが登別のことを触れてくれたりしているおかげで、プロレスファンには“登別市”というワードがインプットされていたのだと思います。
プロレス会場の熱さを市職員の方が感じてくれたように思え、私は手応えを感じました。
市長も2回、北海きたえーる大会に来てくれています。
私は、登別市議会議員2期目を迎えることができました。
そして、今年2月、新日本プロレス北海きたえーる大会に参戦することとなりました。
振り返ると、すべてが新日本プロレス登別大会につながる道だったのです。
新日本プロレス登別大会開催を提案したときは、自分が参戦することなど全く考えていませんでした。
いじめられて悩んでいた中学生の頃、登別市総合体育館でおこなわれた新日本プロレスの大会を観て、勇気や希望をもらいました。
プロレスを観て、子どもたちに勇気や希望を持って欲しい。
立ち上がり、立ち向かうプロレスラーの姿から、なにかを感じて欲しい。
中学生の頃に観た、新日本プロレス登別大会以来、新日本プロレスは登別市で大会をおこなっていません。
だからこそ、実現させたかったのです。
自分が参戦するしないではなく、新日本プロレス登別大会を開催したかったのです。
北海きたえーる大会参戦を経て、登別大会にも参戦させていただくこととなりました。
夢のような話です。
矢野さんとのご縁で、本当に登別市が変わってきました。
熱くなってきました。
矢野さんと私の歩んできた5年間の集大成です。
矢野さんに出会えてよかった。
矢野さんのおかげで、私が夢みていた、
登別からプロレス文化の発信を
という想いが叶ってきています。
登別市を想って活動してくれている矢野さんの存在を、多くの市民に知っていただき、市民からも愛される観光大使になっていただきたい。
観光大使になってよかった
そう感じていただきたい。
そう思っていただきたい。
超満員の登別市総合体育館。
その先につづく道が必ずある。
生きててよかった
会場のみんなでそう感じたい。
会場のみんなでそう思いたい。
あきらめなければ夢は終わらないんだよ。
いろんな想いを背負って、私は新日本プロレス登別大会のリングに立ちます!